BOX190 2006年5月31日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「イエスは何故十字架に?」 高知県 N・Yさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は高知県にお住まいのN・Yさんからのご質問です。携帯のメールでいただきました。お便りをご紹介します。

 「イエス・キリストは何故十字架に掛けられてしまったのでしょうか、教えてください。」

 N・Yさん、メールありがとうございました。携帯からのメールですのでとても短いご質問ですが、キリスト教にとってとても中心的な問題だと思います。
 実はN・Yさんからのメールはこれだけですので、どういう意図で、あるいはどういう関心でこのようなご質問をされたのか、ご質問の意図がわたしにははっきりとは分かりません。少なくとも「イエス・キリストが何故十字架に掛けられたのか」という問いには二通りの意味があるように思います、一つは、人間的な歴史の関心から、どうして、人々はイエスを十字架につけてしまったのか、イエス・キリストの十字架にはどのような処刑の理由があったのかという疑問です。
 もう一つは、宗教的な関心から、イエス・キリストの死にはどのような救いの意味があったのか。あるいは、十字架の死という以外の方法で救いを実現することはできないのか…こういう疑問です。
 いただいたメールはとても短いために、どういった主旨でN・Yさんがご質問をされているのか、残念ながらわたしにはわかりません。もしかしたら、その二つを含めて、お聞きになりたいのかもしれません。とにかくその両方について取上げてみることにします。

 まず、どんな罪状でキリストが処刑されたのか、これは非常にはっきりしています。少なくとも福音書にはイエスの十字架に添えられた罪状書きの板に何と書かれていたのか、その言葉が記されています。四つの福音書とともその罪状書きには「ユダヤ人の王」と記されていたことを証言しています。特にヨハネによる福音書によれば、その罪状書きはヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたとあります(ヨハネ19:20)。つまり、ユダヤに住んでいる人をはじめ、そこを訪れた外国の人にも誰にでも分かるように書かれていたと言うのです。
 では、「ユダヤ人の王」であることが、何故、十字架の処刑に価することだったのでしょうか。そのことについては、ルカによる福音書23章が記している記事から想像がつくとおりです。そこにはローマから派遣されたユダヤ総督のピラトのもとにイエスを訴え出るユダヤ人たちの言葉がこう記されています。

 「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」(ルカ23:2)

 つまり、ローマ皇帝に反逆し、自ら王を自称する謀反者であるということなのです。これが、イエス・キリストが処刑された名目上の理由です。
 では、何故、ユダヤ人はそのような罪を着せてまでキリストを処刑する必要があったのでしょうか。マルコによる福音書にはすでに3章6節に、ファリサイ派の人々がヘロデ党の人々とイエスを殺そうかと相談したと記されています。それは政治的な理由ではなく、安息日を破ったという宗教的な理由からでした。もちろん、それは純粋に宗教的な理由だけではなく、彼らの政治的な思惑も働いていました。
 ヨハネによる福音書の11章48節には、イエスの影響を危惧するユダヤの最高法院に所属する人々の声が記されています。

 「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

 つまり、イエスの人気が自分たちの国の情勢を不安定にさせ、ひいてはローマ人の政治的干渉を招いて危険だということなのです。

 そして、その年の大祭司であったカイアファが口を開いて「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」とのべて、イエスを殺害する計画を謀るように暗に指示したということなのです。

 もちろん、これは福音書が記した事件の全貌ですが、ユダヤ人やローマ人には自分たちの言い分というものはあるでしょう。今となっては証拠集めもできませんし、裁判をやり直すこともできません。聖書もそんなことを求めてイエス・キリストの裁判の様子を描いているわけではありません。
 実は、先ほどの大祭司カイアファの言葉に続いて、ヨハネによる福音書は、この発言の背後にある神のくすしいご計画にも触れてこう記しています。

 「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」(11:51-52)

 つまり、人間的にみれば、イエスが十字架で処刑されたのは、ローマ帝国への謀反を企てた者としてユダヤ人たちにでっちあげられたからでした。しかし、その背後には字との知恵でははかり知ることのできない神の救いの計画があったということです。

 では、神はこれ以外の方法で人を救うことができなかったのか、これに答えることは人間にはできません。神は最もふさわしい方法で救いを実現してくださるお方だからです。神は身代わりという方法で十字架のキリストに人間のあらゆる罪を負わせ、これを罰せられたのです。そして、このキリストの十字架の死が自分の罪の身代わりであると信じる者には、罪の赦しと永遠の命とを約束してくださっているのです。

 最後にご自分の死について語っていらっしゃるイエス・キリストの言葉を引用して結びにしたいと思います。マルコによる福音書10章45節の言葉です

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

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