タイトル: 「聖霊って何ですか」 埼玉県 I・Hさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は埼玉県にお住まいのI・Hさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生。番組をいつも感謝して聴いています。
さて、早速ですが質問があります。それは『聖霊』についてです。
父なる神と子なる神イエス・キリストについてはすぐにイメージすることができるのですが、『聖霊』というとどうもピンと来ません。何かふわふわしたような、つかみ所のないものをイメージしてしまいます。
『聖霊』について分かりやすく簡単に教えていただければうれしく思います。よろしくお願いします。」
I・Hさん、お便りありがとうございました。確かに教会で用いられている使徒信条を思い浮かべてみても、「父なる神」は「天地の造り主」という称号で呼ばれています。これはとても具体的にイメージすることができる称号です。もちろん、「父」という呼び名も、イメージとしては具体的です。同じように「御子イエス・キリスト」というお方も使徒信条の中では、具体的な働きと共にその呼び名が記されています。これもすぐにイメージすることができると思います。
ところが、I・Hさんのおっしゃるように「聖霊」というと、使徒信条の中でも「我は聖霊を信ず」とだけ記されているだけで、すぐ、それにつづいて「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」と主題が次々に変わっていって、結局聖霊について何を信じているのか分かりにくいような気がします。
聖書の中では「聖霊」という言葉は、非常にたくさん出てきます。「聖霊」という呼び名もありますが、単に「霊」「御霊」と呼ばれる時もあります。あるいは「神の霊」と呼ばれたりする時もあります。いづれにしても、「聖霊」という呼び方は旧約聖書よりも新約聖書の方に圧倒的に卓さん出てくる呼び名です。
さて、その聖霊とはいかなるお方であるのか、説明し始めたら、それだけで本が1冊書けてしまうくらいです。少なくとも古来から論じられてきた三位一体論の中で、聖霊の神格について論じなければならないでしょうし、また父と御子それぞれに対する関係にも言及しなければならないからです。
さらに、聖霊の働きや聖霊が与える賜物一つ一つについても当然取上げなければならないでしょうから、とても簡単に終えることはできなくなってしまいます。
しかし、きょうは思い切ってできるだけ分かりやすい説明を心がけたいと思います。必ずしも聖霊論のすべてをカバーしませんが、より具体的にイメージできるように心がけるようにいたします。
さて、まず最初に、父なる神、子なる神、聖霊なる神というときに、父や子というのは、それだけで具体的なイメージが浮かんでくるというのは言うまでもないことです。なぜなら、父親も子どもも、具体的な人間生活の中に生きた見本がいるからです。それに比べて、聖霊というのはそれを譬えるような具体的な表現があるわけではありません。イメージできる言葉で呼ばれていないというだけで、聖霊は何か漠然とした存在になっているというのは否定することができません。しかし、逆に「父なる神」「子なる神」について、わたしたちがどれほど詳しく知っているかとなると、それはまた別の問題であるかのような気がします。わたしたちが知っているのは「父」や「子」という単語であって、「父なる神」や「子なる神」について必ずしもよく知っているとは限りません。ただ、言葉のイメージが先行しているだけに過ぎないのです。
ところで先ほど言及した使徒信条ですが、「父なる神」は主に天地の造り主として紹介されています。そして、その独り子であるイエス・キリストは救い主であり最後の審判の裁き主として紹介されています。では、「聖霊」はというと、先ほども言いましたが、「われは聖霊を信ず」につづいて「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、とこしえの命を信ず」と一気におしまいまで流れてしまって、聖霊が何なのかわからずじまいで終わってしまうように思われるかもしれません。しかし、言ってみれば、聖霊とは神の御子イエス・キリストが勝ち取ってくださった救いを、わたしたち一人一人に適用してしてくださるお方なのです。
確かに、イエス・キリストは十字架の上で罪の贖いの御業を成し遂げられました。また、死者の中からよみがえって永遠の命を確かなものとしてくださいました、しかし、それらのことは、信仰をもって受けとらなければ、ただそこにある絵に描いた餅のようなものです。聖霊は人に働きかけて、信じる心を起こし、キリストが手に入れて下さった救いの恵みをその人に確実に適応してくださるのです。
コリントの信徒への手紙1の12章3節で「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と書いています。「イエスは主である」という信仰を告白することは、人間的に見れば、その人が信じようと意志して信じるわけです。しかし、その人間の意志の陰で聖霊が働いているわけですから、聖霊の働きが顕著ではないと誤解されてしまうのも無理はありません。
同じようにパウロはコリントへの信徒への手紙2の1章22節で聖霊についてこう言っています。
「神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に”霊”を与えてくださいました」
ここでいう「霊」とは「神の霊」「聖霊」のことです。聖霊は救いの保証をしてくださるわけですが、しかし、それとても、目だって目に見えるというわけではありませんから、聖霊の働きが良くわからないというのも無理からぬことです。
もちろん、同じパウロは、一人一人に与えられた賜物も聖霊の働きであると述べています。
「ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。」(1コリント12:10)とパウロは述べています。
確かに聖霊の与える特別な賜物によって奇跡を行なえば、それこそ聖霊の存在や働きが手にとるように分かるようになるかもしれません。しかし、パウロは身体に目や口、手や足があるのと同じように、教会にも聖霊の賜物がそれぞれ違った仕方で与えられていると述べています。みなが目立った働きをするわけではなく、かえって弱いように思われる部分もあるのです。目立つ部分だけを見て、その人に聖霊が与えられ、他の人には与えられていないように考えてはいけないのです。
少なくとも、イエス・キリストを信じる信仰へと動かされている時点で確かに聖霊は豊かな働きをわたしたちに対して起こしてくださっているのです。