タイトル: 「イスラエルでは雪は降るの?」 ハンドルネーム・ケイさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ケイさんからのご質問です。携帯からのメールでいただきました。お便りをご紹介します。
「素朴な疑問で失礼します。先日聖書を読んでいたら、『雪のように白く」という表現が出て来ました。ふと思ったのですが、沖縄に住んでいるわたしの友人は雪を見たことがありません。聖書の舞台となっているパレスチナでは雪はふるのでしょうか? 「雪のように白く」と言われても、ピンと来ない人のほうが多いのではないかと思いました。実際はどうだったのでしょうか。よろしくお願いします」
ケイさん、メールありがとうございました。素朴な疑問、大歓迎です。
確かに、聖書には白さや清さをたとえるときに、「雪のようである」という表現が使われています。今、すぐに思いつく個所は、旧約聖書詩編の51編とイザヤ書の1章です。どちらも罪に汚れたわたしたちを神が清めてくださることに関係している個所です。
詩編51編9節には「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。 わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように。」とあります。罪から清められたその純白無垢な様子を「雪よりも白い」と表現されています。
またイザヤ書の1章18節では「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも 雪のように白くなることができる。 たとえ、紅のようであっても 羊の毛のようになることができる」といわれています。ここでも、罪からの清めが雪の白さに譬えられています。
こういう表現があるのですから、雪がパレスチナでは全然知られていないものではなかったのでしょう。少し興味をもって聖書を調べてみたのですが、「雪」という言葉は聖書全体で23箇所。旧約聖書だけに限れば21箇所です。そのうちの一箇所はダニエル書7章9節で、アラム語の単語です。
白さの象徴という意味では、罪から清められた白さばかりではなく、重い皮膚病の症状として、その白さは雪のようであると表現されています。たとえば出エジプト記4章6節にはこう書かれています。
「あなたの手をふところに入れなさい」と言われた。モーセは手をふところに入れ、それから出してみると、驚いたことには、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。」
では、こういう比喩的な表現が生まれるもともとの雪がパレスチナで降るのかという疑問ですが、旧約聖書の中に確かに雪が降った記録があります。例えば、サムエル記下23章20節にはヨヤダの子ベナヤが立てた功績の一つに「雪の日に、洞穴に獅子を追って下り、それを殺した」と記されています。
具体的な地名と雪とが関連付けられている個所は二ヶ所あります。その一つは詩編の68編15節で「ツァルモン山に雪が降る」といわれています。このツァルモン山というのは士師記9章48節に出てくるシケム付近にあるツァルモン山だと同じであると考えられています。
もう一つ、具体的な地名と結びついている雪は、エレミヤ書18章14節に出てくるレバノンの雪です。そこにはこう記されています。
「シャダイの岩壁から レバノンの雪が消え去るだろうか」
この表現を見る限り、レバノンの雪はイスラエル人にとっては消えないことで有名だったのでしょう。
さて、聖書の記述はさておくとして、現代のイスラエルではどうかというと、非常に稀ではあるようですが、エルサレムでも雪を観測することがあるようです。もちろん、北へ行けばヘルモン山の頂には雪を見ることができます。余談ですがヘルモン山にはスキー場もあるようです。ですから、イスラエル人にとって「雪」というのは、それほど馴染みのないものではなかったようです。「雪よりも白い」とか「雪のように白い」という表現は、決して分かりにくい表現でなかったことでしょう。
もう一度聖書の言葉に戻りますが、箴言には「雪」をキーワードに使った格言が三つほどあります。そのうちの一つは有能な妻を称えた言葉ですが、有能な妻のお陰で「雪が降っても一族に憂いはない。 一族は皆、衣を重ねているから。」と言われています。この格言からも分かるとおり、不意に降る雪のために寒さに震える家庭と、妻の日ごろの賢い備えによって雪の中でも暖かい暮らしを送ることができる家庭もあったようです。
もっとも、同じ箴言の中には「雪」を使った皮肉な言葉も出てきます。それは26章1節に出てくる言葉です。
「夏の雪、刈り入れ時の雨のように 愚か者に名誉はふさわしくない」
夏の雪というのはありえない雪です。それと同じように、愚か者に名誉というのはふさわしくないものだと箴言は皮肉ります。
さて、随分と話が広がってしまいましたが、きょうはケイさんから寄せられた素朴な疑問から、「聖書と雪」について考えさせていただきました。ケイさんのメールの中にもありましたが、日本では沖縄県では雪が降らないと聞きました。沖縄の方にとっては、「雪のように白い」といわれてもあまりピンと来ないのかもしれません。沖縄では「砂浜のように白い」という表現の方がピンと来るのかもしれないですね。
もっとも、一番最初に取上げたイザヤ書1章18節では雪の白さのようになることを、「羊の毛のようになることができる」と言い換えています。雪に馴染みのない人々にとっては、こちらの方がピンと来る人もいたことでしょう。逆に羊を飼う習慣のないわたしたちには、「羊の毛のようになる」というほうが分かりにくいのかもしれないですね。