タイトル: 「タバコについて」 神奈川県 匿名希望
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいの匿名希望、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、はじめまして。キリスト教と喫煙について教えてください。
わたしはヘビーというほどではありませんが、スモーカーです。クリスチャンはタバコを吸わないということを聞いたことがあるのですが、ほんとうでしょうか。もしそうだとすると、わたしがクリスチャンになるときには禁煙の誓いでもしなければならないのでしょうか?
よろしくお願いします。」
お便りありがとうございました。結論から先に言うと、クリスチャンはタバコを吸わないというのは、間違った情報です。タバコを吸うクリスチャンもいれば、吸わないクリスチャンもいます。これが現実です。
では、聖書で喫煙が禁じられているのか、というと、直接に禁じた言葉はありません。なぜなら、聖書が書かれた時代にはタバコを吸う習慣というのは、まだ知られていなかったからです。それだけの理由ですから、もちろん、その逆に聖書の中には喫煙を許可する言葉も出てきません。聖書は喫煙に関して、禁止も許可も直接与えてはいないのです。
それでは、どの教会も、どの教派も、タバコを吸うことに関して、自由な立場を取っているのでしょうか。これもまた実際には色々な立場の教会があるというのが現実です。タバコを禁じている教会もあれば、喫煙を個人の自由に任せている教会もあります。
喫煙の問題に関しては、この番組でも過去に取り上げたことがあるかと思います。基本的には喫煙の習慣は個人の判断に委ねられた問題であると、わたし自身、長年考えて来ました。いわゆる、アディアフォラに属することがらと受け止めて来ました。
アディアフォラというのは、聖書によって命じられてもいなければ禁じられてもいないことがらのことをさす用語として知られています。そうしたアディアフォラな事柄は、個人の良心の問題であるとわたし自身は考えているのです。もっとも、聖書によって禁じられてもいなく、命じられてもいない事柄のすべてが、人間の良心的判断に委ねられているのかというと、必ずしもそうではないことも知っています。特に改革派教会・長老派教会では、礼拝に関わる事柄に関しては、聖書が明確に禁じていないことであっても、聖書が明確に命じていない事柄は、禁じられているのだという理解に立っています。もし、そうでないとすれば、教会の礼拝の中に様々な人間のアイディアが持ち込まれてしまう危険があるからです。
それとは別に個人生活の中でのことを考えた時に、聖書が明確に禁じてもいなく、かつ、積極的に命じてもいない事柄を、すべて禁止されていると考えてしまうならば、ほとんどわたしたちは聖書時代の生活そのままを真似なければならないという結論になってしまいます。なぜなら聖書の時代になかったものは、すべて禁止されてしまうからです。果たしてそれが正しいクリスチャンの生き方であるのか、とても疑問です。
さて、喫煙ということに関して、もう少し具体的に考えてみると、時代の流れは、明らかに喫煙者にとっては不利な時代になってきていると思います。それはタバコが健康に及ぼす害の大きさが、様々に論じられているからです。例えば日本でも3年ほど前から施行された「健康増進法」の第25条では、受動的な喫煙の防止が謳われています。つまり、タバコを吸う人の回りの人が、タバコの煙によって健康を害する事がないようにということを定めた条文です。その条文によれば「学校、体育館、病院、劇場、観覧場、集会場、展示場、百貨店、事務所、官公庁施設、飲食店その他の多数の者が利用する施設を管理する者は、これらを利用する者について、受動喫煙(室内又はこれに準ずる環境において、他人のたばこの煙を吸わされることをいう。)を防止するために必要な措置を講ずるように努めなければならない」と定められています。
もちろん、この条文の背景にあることは、タバコの煙が本人にとってばかりではなく、回りにいる者にも健康上の害を及ぼすおそれのあるものであるという事実です。もし、そうであるとするならば、もはや、タバコをアディアフォラなこととして個人の良心的な判断に任せておいてよいとは言えなくなってきているのではないかと思います。他人の健康を害するおそれのあることを、果たしてクリスチャンがしてもよいのか、これは考えるまでもないことだと思います。
もちろん、他人の健康に害を及ぼすことのすべてが禁じられているというわけではありません。たとえば自動車の排気ガスも健康に被害をもたらすおそれがあります。だからといって、自動車を一切使わないことによって失われる様々な利益を考えると、健康上の理由だけで自動車社会を放棄してしまうことはできません。
しかし、タバコの場合はそうではありません。タバコを吸わないことによって失われる利益は、自動車社会の比ではありません。
もし、タバコの害が、一昔前のようにそれほど知られていない時代であったとすれば、それはただ単にアディアフォラの問題として、個人の良心の問題として、個人の判断に任せておけばよい問題でしょう。しかし、今やタバコのもたらす害についての認識がこれほどまでに高まっている時代ですから、これをアディアフォラの問題とするのではなく、神の前に生きる人間の健康管理に関わる問題として考える必要があるのではないかと思います。もちろん、個人の健康管理は教会の問題ではありません。個人の判断に委ねられている問題です。しかし、タバコの問題はその人本人の健康ばかりではなく、回りの人たちの健康にも関わる問題です。ですから、聖書が教える隣人愛の教えにも照らして、慎重に考えていただきたい問題だと思います。
タバコはコーヒーなどと同じ嗜好品に分類されるかもしれません。確かに、健康に与える害のことを考えなければ、コーヒーもタバコも同じように個人の嗜好に合わせてたしなめばすむ問題です。しかし、同じ嗜好品とはいっても、コーヒーとは違って健康への害は否定することができないのですから、コーヒーとタバコを同列において考えることはできないと思います。
最後に、クリスチャンとしての判断には、他人への配慮も十分に必要であると思います。もちろん、他人の健康への配慮は言うまでもありません。それに加えて、タバコをたしなむことをよくないことと考えているクリスチャンがいることも事実です。そういう人たちの良心を踏みにじってまでタバコを吸う意味があるのかどうか、これも同じクリスチャンとして配慮して考えるべき問題であると思います。