BOX190 2006年2月8日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「婦人会・男子会?」 ラジオネーム・ちゃーさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はラジオネーム・ちゃーさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、はじめまして。いつもインターネットで番組を聞かせていただいています。原稿をプリントアウトして何度も読み返したりして、いろいろ学ばせてもらっています。

 さて、きょうは先生に聞いてみたいことがあって、メールしてみました。それは教会の中にあるいろいろな集会についてです。全部の教会がそうなのかどうか分かりませんが、大抵の教会には日曜日の礼拝や水曜日の祈祷会のほかに、いろいろな学びの機会があります。わたしが今まで行ったことがある教会では、青年会、婦人会、男子会などと、大体分かれていたように思います。その他にシメオン会とかキラキラ会とか呼び名はいろいろでしたがお年寄りだけの集まりを持つ教会もありました。

 それで、わたしの疑問なのですが、青年会はどこの教会に行っても男女共に同じ青年会なのですが、青年を卒業すると男女分かれて、婦人会だったり男子会だったりします。そして、今までわたしが知っている教会で持たれていたお年よりのための集会は男女の区別はありませんでした。

 一体どうして、男子会、婦人会などと性別によって区別する必要があるのか、ちょっと不思議に思いました。何か特別な理由でもあるのでしょうか。よろしくお願いします」

 ちゃーさん、メールありがとうございました。ちゃーさんのおっしゃる通り、大抵の教会には学生会や青年会、既婚男性の会、既婚女性の会、それからお年よりのための会など、様々な年齢、性別のための会があります。はたして、それらがどういう理由で存在するのか、あるいはこの区別は教会にとってぜったいに必要なものなのか、疑問に思う方もいらっしゃるかもしれないですね。少なくともちゃーさんの場合は、年齢による区別にはそれなりの合理性を認めていらっしゃるようですが、性別による区別が果たして必要なのかどうか、疑問をお持ちのようです。さっそくこの問題について、ご一緒に考えてみたいと思います。

 そもそも、聖書時代の教会がどうであったのかというと、使徒言行録やパウロの書簡から窺い知ることのできるかぎりでは、今日の教会ほどいろいろな組織だった会があったとは思えません。その時代の教会は礼拝を守ることや、お祈りのために集まるだけでも、色々な意味で大変だったと思います。そもそも、集まる人たちに時間的な余裕がなければ難しいでしょうし、またそういう場所を持つことも難しかっただろうと思います。どうやら聖書的な理由があって、今のような世代別の集会や男女別の集会が始まったというわけではなさそうです。

 その後の教会の歴史を調べたわけではありませんから、いつの頃から、男子会や婦人会がどこの教会でも始まるようになったのか、その足跡をたどることはできません。ただ、それらは必要に応じて自然発生的に生まれてきたのではないかと思われます。

 単純に理由を考えてみても、日曜日の礼拝だけで、信仰的な学びや教会的な訓練をすべて行なうというのは不可能に近いことです。様々な機会を通してクリスチャンとしての成長を願うことは、信徒一人一人の気持ちでもあるでしょうし、また、群れを委ねられた牧師の願いでもあると思います。では、具体的にどうすればよいのかと考えれば、実現できる方法というのは自ずと限られてきます。たとえば、今の日本の教会で、何か会を開こうとした時に、曜日ごと時間帯ごとに集まれる人でグループを作ったとしたら、どんなグループが出来上がるでしょうか。きっと自然と男女別になったり、年代別になったりするのではないかと想像します。例えば家族の中で自分だけがクリスチャンであるご婦人たちと、お勤めがある壮年男子が、同じ時間帯に何かの会合を持つというのは、なかなか現実的ではないように思います。そういうご婦人たちにとっては、平日の午前中の方が集まりやすいでしょうし、またそういう壮年男子にとっては、土曜日の午後や日曜日の礼拝の後の方が集まりやすいことでしょう。実際的なことを考えると、今の教会の活動はそれなりに合理的な根拠があるように思います。

 また、教派として教会全体の活動を考えた時にも、ある程度どの教会でも同じような活動をしているというのはメリットがあると思います。たとえば、連合の婦人会組織や連合の学生会組織を作ることが出きれば、さらによりよい活動ができます。それでどうしても同じ教派内にある教会では、同じような活動の組織が生まれてくるのは避けられません。

 けれども、日本の教会がもっと人数的にも豊かになってくれば、今までの伝統的な集会の持ち方とは違った組織がいくつも生まれてきてもよいと思っています。

 たとえば、わたしがアメリカにいたときに通っていた教会には、若い夫婦のための集会がありました。これは日本の伝統的な教会にあるような男子会、婦人会といった枠を越えた集まりです。また、平日または日曜日の夜に、小さなグループの学び会がいくつもありました。これも、男性、女性といった分け方ではなく、大抵は夫婦で参加する地域ごとの家庭集会のようなものでした。どれも、必要に応じたふさわしい形態で集会がもたれていました。

 ですから、可能であれば、伝統的な男子会・婦人会といった分け方ばかりではなく、地域ごとに、年齢ごとに、あるいは学ぶテーマの関心ごとにいくつでも学びと訓練の会を持つことは許されているのだと思います。ただ、実際的なことを考えると、それぞれの会を指導できるリーダーがいなければ、いろいろなグループがあったとしても、それを通してふさわしい学びと訓練がなされるかどうか、とても不安です。また、一つのグループに集まる人数が極端に少なくても、よい学びの場所にはなりにくいでしょう。せっかくヤングカップルの会をつくっても集まる人が一組しかいないのでは意味がありません。

 問題は、男女別、年代別というような機械的な分け方ではなく、そのグループを通して一人一人が信仰の学び、教会的な訓練をもっともよく受けることができるような組織の作り方が、いつも教会によって模索されるべきだとわたしは考えています。

 今の平均的な日本の平均的な教会の規模では、案外、今までどおりの男子会、婦人会というわけ方も、それほど時代遅れという訳でもないように思います。ただ、何度もいいますが、こうした会を持つ目的がどこにあるのかを見失ってしまっては、どんな形の会ができたとしても、それは成功しないと思います。逆に、目的をしっかりと把握することができれば、様々な可能性にチャレンジしてみることもまた有益ではないかと思います。

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