お元気ですか。横浜中央教会の立石章三です。
今週はキリスト教の洗礼を受ける時の誓約(誓いの言葉)について学んでいます。全部で6か条ありますが、2番目は「あなたは、自分が神のみ前に罪人であり、神の怒りに値し、神のあわれみによらなければ、望のないことを、認めますか」という言葉です。
昨日は聖書から語りかけて来られる神様だけがまことの神様であると学びました。今日の質問は、それではこの神様と私とはどういう関係にあるのですか、また私を造った神様は、私がどうあることを望んでおられますかという問いです。
聖書は私たちが、神様が望んでおられる正しい生き方をせず、すべての人間は思いと言葉と行動において、罪を犯していると教えています。私たちはこのままでは、神の怒りに値し、滅びてしまうのです。私たちは神を信じることによって、自分の自己認識が変わるのです。私はこの方が喜ぶような生き方をいているだろうかという自己反省が起こってきます。これが自分の「罪を認める」ということです。
キリスト教は罪、罪と言うからいやだ、私は悪いことは何もしていないし犯罪人でもないのに、私たちを罪人と言うからいやだ、こう思う方も多いでしょう。けれども私に罪があるかどうかは、私のものさしで計って分かるわけではありません。私が欠陥品であるかどうかは、私を造った方に診断してもらわねばならないのです。
「自分のことは自分が一番良く知っている」と言って、病院へ行くのを嫌がる人がいますでも「あなたは病気です」と診断されるのを恐がっているのですね。私のことは、結局私を造った神様が一番良く知っておられるのです。聖書が語る診断に耳を傾けましょう。