いかがお過ごしでしょうか。湘南恩寵教会の鈴木牧雄です。けさも最初に聖書の言葉に耳を傾けましょう。フィリピの信徒への手紙2章6節からです。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
聖書を読んで、キリストの愛と謙遜の生涯に触れると、キリストを模範にして自分もあのようになろうと思いがちです。しかし、残念ながらすぐに挫折してしまいます。なぜでしょう。
道徳的美徳としての謙遜とは、決して高ぶらないこと、つまり、無理に低くなる必要はありませんが、ありのままの自分にふさわしく振舞うことと言えましょう。しかし、キリストの謙遜とは、神に等しいお方がご自分を無にして人間と同じ者となられたということ、また、キリストのへりくだりとは、十字架の死に至るまでの従順であり、私たち人間には決して真似のできないことだからです。
そして、だから聖書は、キリストを倣うべき模範ではなく、信じるべき救い主として受け止めることを私たちに期待しているのです。キリストは、私たち人間が自分では決してつかむことのできない罪からの救いのために、十字架で愛の身代わりとなられた神の御子であられます。信ずべき神の救い主であられます。