お元気ですか。ラジオ牧師の山下正雄です。
キリスト教は愛の宗教だとよく言われます。聖書の中にこんな言葉があります。
「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」
「どら」といってもあまりぴんとこないかも知れません。大きな音の出る金属製の打楽器です。シンバルの方はもうちょっとなじみのある楽器です。ここぞというときに勇ましく鳴り響きます。
先ほどの聖書には「騒がしいどら」「やかましいシンバル」といわれていました。しかし、どらやシンバルの音が皆騒がしくやかましいというわけではありません。船が出る合図のどらは旅人にはやかましいとは思えないでしょう。クライマックスで鳴り響くシンバルには感動さえ覚えます。けれども、そのどらやシンバルも無意味に鳴らされたのでは、うるさいだけの存在です。
その昔、コリントの教会では「異言」と呼ばれる特別な言葉で祈ったり話したりすることがもてはやされました。けれども聖書は、もしそこに愛がなければ、うるさいどらやシンバルの音に過ぎないと一喝します。わたしたちの語る言葉がどんなに立派であっても、そこに愛がなければうるさいだけの言葉です。愛から出る言葉にこそ人は心を開くのです。
きょうのみ言葉・・・「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」
コリントの信徒への手紙1 13章1節