メッセージ: キリストに従う覚悟(マタイ8:18-22)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「クリスチャンになってキリストに従うということは、よほどの覚悟がいることです」…もし、こんな話をしたとすれば、クリスチャンとなることに二の足を踏んでしまう人も出てくることでしょう。弱気になっている人を励ましながら、キリストの弟子となる決心を促すことに、たいていの牧師や宣教師たちは心を砕いています。
「そのままの自分で大丈夫です」「聖霊なる神様が助けてくださいます」…いろいろと励ましの言葉をかけます。
しかし、時として、安易な思いでキリストの弟子となろうと思う人をしっかりと指導することもあります。その人のうちに十分な信仰を認めることができないときには、洗礼の日取りを伸ばすということさえあります。
きょうの個所では、イエスに従うことに関して、キリストの厳しい言葉が出てきます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書8章18節から22節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」
今まで三回にわたってマタイ福音書の8章に出てくるイエスの癒しの御業について学んで来ました。先週学んだ個所にもありましたように、「人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た」のです。次から次へと押し寄せる群衆をご覧になって、イエスは弟子たちに向こう岸に行くようにと命じられます。きょうの話はそこから始まります。
マタイによる福音書には、イエスが何故、群衆たちを置いて向こう岸へと渡ろうとされたのか、特に理由は記されていません。他の個所から推測すると、こういう場合には二つの目的がありました。まず、イエスが来られたのは神の国の到来を告げ知らせるという大きな目的がありました。この神の国の到来は教えと宣教を通して告げ知らせるということと並行して、数々の癒しの御業によっても告げ知らされました。そこで、マタイ福音書の12章28節でこう言われています。
「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」
つまり、病の癒しも悪霊の追放も、神の国の到来を告げ知らせる確かなしるしであって、病気の癒しや悪霊の追い出しそれ自体に目的があったわけではありません。ですから、イエスはこの神の国の到来を広く告げ知らせるためにも、一箇所に留まるのではなく、次から次へと町々村々を行き巡る必要があったのです。ルカによる福音書4章42節以下によると、イエスを探し回って自分たちのところに引きとめようとする群衆たちにイエスは「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」とおっしゃっています。
もう一つの理由は、弟子たちを休ませるためです。マルコ福音書の6章31節には、食事をする暇もない弟子たちを、人里はなれた場所へと送り休ませた記事が出てきます。イエス・キリストは決して弟子たちの肉体的な、また霊的な疲労を無視して神の国の宣教を推し進めるようなことはなさらなかったのです。
さて、そうして向こう岸へ渡ろうとするイエスたち一行のところへ、一人の律法学者が近づいてきてイエスの弟子となる決意を表明します。
「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」
ところが、イエスはその律法学者の決意をもろ手を挙げて歓迎したわけではありません。むしろつれないくらいの返事です。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
この律法学者本人は真面目にイエスに従う決意をしたことでしょう。そのことまでも疑うことはできません。しかし、イエス・キリストの目から見れば、この律法学者の「従う」という見積もりが甘かったのです。イエス・キリストは別の個所で、こうおっしゃっています。
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか」(ルカ14:27-28)
この律法学者が口から出任せに「どこへでもついていきます」と言ったとは思いませんが、イエスに従ってどこへでもついていくために必要な犠牲を低く見積もりすぎていたのです。ですから、イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」とおっしゃっているのです。狐や空の鳥でさえ、安らうところがあるのに、イエスに従う者たちには安心して枕するところも与えられないほど苦労が伴うのです。
それをいともたやすいことのように自分の力でどこへでも行けると思っているところにこの律法学者の見積もり違いがあるのです。同じ間違いは最後の晩餐の席上でペトロもしてしまいました。ペトロはイエス・キリストの警告を軽く見積もって「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い放ちました。しかし、ペトロはイエスを見捨ててしまったのです。
さて、もう一人の登場人物は、これから弟子になろうとしている人ではなく、もう既にイエスの弟子となっている人です。その人はイエスにこう言いました。
「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」
あの「どこへでもついていきます」と言った律法学者にさえ、ご自分についてくることを許さなかったイエスですから、ご自分のもとから去っていく程の弟子を、去るままに任せるのかと思えば、そうではありませんでした。決して「来る者拒まず、去るもの追わず」ではないのです。
父親の葬りのためにイエスのもとを一時的に離れようとしている弟子にイエスはこうおっしゃったのです。
「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」
旧約聖書では聖なる務めを果たす祭司でさえ、父母などの肉親に限っては遺体に触れることが許されていました(レビ21:1-4)。それほどに肉親を葬ることは大切な事柄だと捉えられていたのです。しかし、それにも関わらず、イエスはご自分に従うことを求められたのです。これはユダヤ人として常識的に育ってきた人々にとってはとても驚くような教えです。
しかし、イエス・キリストがここでおっしゃりたかったことは、肉親の葬儀などどうでもよいということではありません。「まず、なすべきことが何か」、その優先順位の見積もり方を問題にされているのです。イエス・キリストは山上の説教で「まず神の国を求めなさい」とおっしゃいました。この優先順位のつけ方を間違えると、日常生活の「まず第一」がいつまでも「第一」になってしまう危険があるからです。すべてのことに片をつけてから、それからイエスに従うのではなく、イエスに従う中で、第二のもの、第三のもの位置が決まってきるのです。