メッセージ: ひと言のお言葉で(マタイ8:5-13)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
福音書の記事を読むときに、イエス・キリストに目を注いで読むのか、それとも、登場人物に着目しながらよむのかでは、随分と読み方も違ってきてしまうと思います。しかし、どちらか一方にだけ重きを置いて、読むのではなく、両方に目を配りながら読むのが正しい読み方なのだろうと思います。そうでなければ、あまりにも人間的なお話に終わってしまうか、はたまた、手の届かない高くて遠いお話に終わってしまうからです。
きょう取り上げようとしている個所もまた、両方の側面に目を配りながら読むときに、その深い恵みを味わうことができるでしょう。
さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
先週からマタイによる福音書の8章に入りましたが、ここには続けて三つの癒しの記事が記されています。先週学んだのは、ユダヤ人からは最も汚れていると思われていた、重い皮膚病を患う人の癒しの話でした。きょう取り上げようとしているのは、ユダヤ人からは忌み嫌われていた異邦人の癒しに関わる記事です。
イエスがカファルナウムに戻られると、一人の百人隊長がイエスのもとへやってきます。カファルナウムと言う町はガリラヤ湖の北岸に位置しており、洗礼者ヨハネが逮捕された後、イエスがナザレから住み移った町です。ペトロとアンデレの故郷でもありました。この町はヘロデ・アンティパスの領地でしたが、隣りのベトサイダはフィリポの領地でした。ここに登場する百人隊長がローマの軍隊の百人隊長なのか、ヘロデ・アンティパスの雇った軍隊の長なのか分かりませんが、いずれにしても彼が異邦人であったことは間違いありません。
この百人隊長には今直面している大きな問題がありました。それは彼の僕が中風で寝込んでしまったのです。ただ静かに寝込んでしまったと言うのではありません。ひどく苦しんでいるのです。動くことのできない体で、苦しむ様子は、見ていて堪えがたいものがあります。この百人隊長は決して冷酷な人間ではありませんでした。僕の一人が苦しんでいても平然としているような無情な人ではなかったのです。僕の痛みを自分の痛みとし、僕の苦しみを自分の苦しみと感じたのです。何とかこの苦しみから僕を解放してやりたいと心から願ったのです。
丁度そのとき、イエスがカファルナウムにやってきたと言う知らせは、この百人隊長には耳寄りな話だったに違いありません。イエス・キリストがなした様々な癒しの業の噂は、間違いなくこの百人隊長の耳にも入っていたはずです。けれども、ユダヤ人と異邦人との間にある溝も、この百人隊長は理解していたはずです。百人隊長の耳にはユダヤ人であるイエスが異邦人を癒したという話はまだ聞いたことがありませんでした。たとえ、イエスのもとに近づいて、この僕の苦しみを訴えたとしても、果たしてユダヤ人のイエスが、異邦人の苦しみを聞き上げてくれるかどうか、この百人隊長には確信があったわけではなかったでしょう。しかし、とにかく僕の苦しみを放置しておくことは忍びなかったです。
百人隊長の訴えに対して、イエスの答えは予想以上のものでした。
「わたしが行って、いやしてあげよう」
イエス・キリストはそう答えられました。ただ、「癒してあげよう」とおっしゃったのではなく、わざわざ異邦人である百人隊長の家まで赴いて、癒してあげようと約束されたのです。
先週学んだ重い皮膚病の患者を癒された時もそうでした。ユダヤ人たちはこの重い皮膚病を患う人に手を触れることは決してしませんでした。しかし、イエスは手を差し伸べて、この人の身体に触れたのでした。それと同じように、決してユダヤ人は異邦人の家に入ったりはしませんが、しかし、イエス・キリストは「わたしが行って、いやしてあげよう」と、自分から異邦人の家に足を向けようとされたのです。
ところが、この話はここで終わるのではありません。この百人隊長は異邦人である自分がイエス・キリストをお迎えする価値のないことを告白します。その上でただお言葉をくださいと願ったのです。
この百人隊長の態度に、イエス・キリストは「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と驚かれます。
これほどの信仰とはどんな信仰をさしていったのでしょうか。
一つには救いの恵みを受け取るには価値がない自分を認める信仰です。しかし、それでも救いはキリストのもとにしかないことを信じて神に頼る信仰です。決してこの百人隊長は自分の願いが聞き入れられるに足りるだけの価値が自分にあるとは思っていないのです。
第二に、神の言葉には権威があると言う信仰です。確かにユダヤ人たちにもそのことは聖書を通して教えられていました。預言者イザヤの口を通して神はイスラエルの民にこう語られました
「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。 それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:11)
この百人隊長は異邦人で、聖書の言葉を学んだことはなかったかもしれません。しかし、キリストの言葉がそのように力あることを信じていたのです。その信仰は私たちにも必要な信仰なのです。
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