聖書を開こう 2005年11月17日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 狭い門から(マタイ7:13-14)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「狭き門」と言う言葉を聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。アンドレ・ジッドの小説『狭き門』でしょうか。あるいはエリートだけが入れる有名大学や一流企業の狭き門のことでしょうか。この「狭き門」と言う言葉がイエス・キリストの教えの中に出てくることを知っている人は案外少ないかもしれません。

 さて、イエス・キリストはこの「狭き門」の譬えを通して何を私たちに訴えかけていらっしゃるのでしょうか。ご一緒に学びたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 7章13節と14節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

 ここには、狭い門と広い門、細い道と広々とした道が対になって登場してきます。広い門と広々とした道は滅びに通じる門と道を表しています。狭い門と細い道は命に至る門と道です。イエス・キリストは滅びと命を対比させて、そこに至る狭い門と広い門、細い道と広々とした道について語っているのです。

 いわば、この部分は今まで学んできた山上の説教の結びとも言える部分です。山上の説教を結ぶに当たって、イエス・キリストは命と滅びとを聞く人々の前にお示しになっているのです。キリストの教えに耳を傾けるということは、命の道を選び取る決断を下すことです。イエス・キリストが望んでいらっしゃることは、まさに教えを聞く者たちが命の道へと歩みだすことなのです。

 では、このキリストの望みに反して、キリストの教えに耳を閉ざし、命へ至る道を拒んでしまったらどうなるのでしょうか。もちろん、他にもたくさんの道があるのでしたら、別の道を通って命に至ることもできるでしょう。しかし、厳しいようですが、イエス・キリストは命にいたる狭い門、細い道と、滅びにいたる広い門、広々とした道についてしか語っていないのです。

 こういう二者択一の道を示して、どちらか一つの選択を迫るやり方は、今の私たちにはあまりなじまないという声も聞かれるかもしれません。決断はできるだけ先に延ばし、曖昧のままでしばらくは過ごしていたい、こう思う人たちの何と多いことでしょうか。しかし、そう思う時点で、既にそこから入る者が多いといわれる広い門、広々とした道を滅びに向かって歩み始めているのです。

 もっとも、「買うのか、買わないのか、買わなきゃひどい目に遭うぞ」というのでは押し売りの論法と同じです。このイエス・キリストのやり方をそう非難する人もいるかもしれません。しかし、イエス・キリストの言葉をそんな風に聞いてはいけないのです。イエス・キリストは人を脅迫して、何か物事を決断させようとしているわけではありません。第一、脅迫したぐらいで人が命を選び取るのでしたら、滅びに至る道こそとっくに狭い道になっていたことでしょう。

 イエス・キリストはおっしゃっています。

 「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」

 それに対して、命に至る門については、こうおっしゃっています。

「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

 命も滅びも現実なのです。そして、広くて入りやすい滅びの門を多くの人が楽々とくぐってしまっているのも現実なのです。そうであるからこそ、イエス・キリストは命に至る門を見出して、そこから入るようにと促していらっしゃるのです。

 以前、わたしはとんだ失敗をしたことがありました。それは不慣れな場所での出来事でした。大きなイベントが終わって帰ろうとした時、どっちへ行ったらよいのかと道に迷ってしまったのです。大勢の人たちがそこにはいましたから、群衆の流れに身を任せてしばらくみんなの向かう方向へ歩いていたのです。ところが気がついてみると、その大勢の人たちが向かっていたのは、私が向かおうとしていた場所とは全然違った場所だったのです。

 みんなが向かう方向と言うのは、それだけで安心なものです。まして、そのみんなが自分の仲間や知り合いであったらなおさらのことです。万が一、それが失敗の元だとしても、失敗の責任をうやむやにできるという安心感もあるでしょう。けれども、みんなが向かう方向が安心できるとしても、それが正しい目標に向かっているという保証にはならないのです。

 イエス・キリストは山上の説教を聞いた一人一人に、命の現実と滅びの現実とをお示しになって、私たち一人一人がどちらの道を歩もうとしているのか、その決断を求めていらっしゃるのです。イエス・キリストの話をただいいお話だったと感銘を受けるだけではいけないのです。

 ところで、命に至る門は「狭く」、命に至る道が「細い」とおっしゃっています。このイエス・キリストの言葉にも耳を傾ける必要があります。一般に「狭き門」ということばは「難関」と言う意味に使われます。そこを通過すること自体が難しいような、そういう譬えに使われる言葉です。たとえばたくさんの人が受験するために、競争率が何十倍にもなってしまうような有名大学の門は「狭き門」と呼ばれます。けれども、イエス・キリストがおっしゃる命に至る狭い門とは、たくさんの人が押し寄せるので、そこを通れなくなってしまう人が溢れてしまうような門のことではありません。むしろ門が狭いために、また、道が細いために、それとは気づかずにそこを通り越してしまうような「狭き門」「細き道」なのです。だからこそ、自覚してその道を見出すように務める必要があるのです。

 そしてまた、誰もが入りたがるような競争率の高い門ではありませんから、他人を押しのけて入る必要はありませんが、しかし、この「狭き門」「細き道」に足を踏み入れるのには、自覚と覚悟が必要です。なぜなら、誰もが進む広々とした道、広い門を尻目に、わざわざ狭い門をくぐりぬけ、細い道を選び取るからです。もっとも、その決断を促してくださるのはわたしたちのうちに働いてくださる聖霊です。この聖霊の促しに謙虚に従う時に、狭い門を見出し、そこを通って命に至ることができるのです。

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