メッセージ: 黄金律(マタイ7:12)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
何か善いことを行ないたいと願うのは、神から人間に与えられた素晴らしい性質だと思います。これは聖書が説く「堕落した人間」からはまったく失われてしまった性質かといえば、決してそうではないと思います。どんなに罪深い人間の中にも、正しいことを行ないたいと願う気持ちが全く失われてしまっているわけではありません。もし、人間の堕落の結果、人間の心から正しい思いがすっかり消えうせてしまったのだとしたら、この世の中はたちどころに悪の満ち溢れる世界になってしまったことでしょう。
たとえ堕落した人間の心にも、なお良心のかけらが残っています。そうであればこそ、様々なよいことを勧める格言が、世界中どこへいっても目にしたり耳にしたりすることができるのではないでしょうか。
さて、きょう取り上げる個所には、イエス・キリストが教えてくださったゴールデンルールともいうべき言葉が記されています。イエス・キリストはいったいわたしたちにどう生きるようにと勧めていらっしゃるのでしょうか、ご一緒に学びましょう。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 7章12節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
きょう取りげる個所は、一般に黄金律・ゴールデンルールと呼ばれ親しまれてきた個所です。短い言葉の中に、イエス・キリストが弟子たちに求めていらっしゃる生き方が見事に表現されています。のちにイエス・キリストはこの福音書の22章34節以下で、もっとも大切な戒めについて人々に教えています。そこでは、神を愛することと隣人を愛することが一番大切な戒めとしてとりあげられています。きょう学ぼうとしているゴールデンルールは、このもっとも大切な戒めのうち、特に隣人に対する愛と深い関わりがあります。隣人を愛するということを具体的に行なうためには、このゴールデンルールに学ばなければなりません。
まずはじめに、このキリストのゴールデンルールに学ぶ前に、これと非常によく似た教えについて触れなければなりません。わたしは小学校の高学年のときに、担任の先生から様々な人生訓を学びました。これから人間として成長していく上で、とても素晴らしい学びをさせていただいたと、今でもそのことを感謝しています。その先生から教えていただいた人生訓の一つに孔子の教えがありました。先生は孔子の教えを引用して、「自分がされて嫌だと思うことは、他の人にもするな」と教えてくださいました。それは全くそのとおりだと、小学生だった私にも納得がいきました。
実は同じような教えは、ユダヤ教の中にもあります。ユダヤ教のラビだったヒレルは「自分が憎むべきことは、隣人に対してするな。それが律法の全体であって他はその解釈に過ぎない」と言ったのです。先ほどの孔子の教えとほとんど同じことを言っているのです、
こういう教えはきっと世界中どこへいっても同じようなことを言う人がいるのでしょう。そして、このことは他人に迷惑を掛ける生き方がこの世の人からどれほどいとわれているかと言うことの証拠でしょう。
では、イエス・キリストのおっしゃったゴールデンルールは、孔子やラビ・ヒレルの教えと同じことなのでしょうか。確かにほんとうによく似ているようにも見えます。しかし、ゴールデンルールにはひとつ大きな視点の違いがあります。それは物事を積極的に捉えているか、消極的に捉えているかの違いです。
孔子もラビ・ヒレルの教えも、何か悪いこと、迷惑になるようなことは「しない」という点に力点がおかれています。「しない」ということに力点がおかれてしまうと、人間と言うのは「しないに越したことはない」という方へ考えが流れてしまうものです。そのうち、「誰にも迷惑を掛けていないのだからとやかく言われる筋合いはない」という考えにまで至ってしまい、結局は他人に迷惑を掛けない自分の幸せを求めることが人間の生き方の中心にさえなってしまうのです。もちろん、孔子やラビ・ヒレルがそんな人たちではなかっただろうとは思います。しかし、彼らの教えを実践することは、結局は実践してはいけないことを探す方に傾いてしまうのですから、先細りになってしまうことは避けることができません。
ところが、イエス・キリストは同じことをもっと積極的に語ってくださいました。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」…これがイエス・キリストの教えなのです。「しない」ということに力点がおかれるのではなく、「する」ということに教えの中心があるのですから、何もしなければとりあえずは合格と言うわけにはいかないのです。
もちろん、自分にとって嬉しいことは、他人にとっても嬉しいとは限りません。そんな親切の押し売りこそ、最大の迷惑だという批判もあるかもしれません。もちろん、ここでイエス・キリストがおっしゃりたかったことは、自分にとって心地よいことを他人に押し付けることではありません。まして、自分の好みや主義主張を押し付ける生き方が素晴らしいなどといっているのでもありません。
人間とはとかく利己主義に傾きがちなものです。自分の利益のためには労を惜しまなくとも、他人のためとなると石ころ一つも動かそうとしたがらないのが罪深い人間の本性なのです。イエス・キリストはそういう人間の罪深さを前提に、わたしたちの生き方を問うていらっしゃるのです。
自分が他人のために何もしないことを正当化する理由は一体何でしょうか。自分にとって心地よいことが、必ずしも他人にとってして欲しいこととは限らないということが、自分を善い行いから退かせる正しい理由なのでしょうか。もしそうだとすれば、自分の生き方が、いかに自己満足に終始しているかと言うことにはならないでしょうか。イエス・キリストはこのゴールデンルールを通して、結局は自分の生き方、自分にとって心地よい生き方が何であるべきかと言うことも問い掛けていらっしゃるのです。
律法学者のひとりは、隣人愛を実践できないことを正当化するために、「隣人」の定義があいまいであることを問題としました。誰が隣人であるか分かれば、隣人を愛するといわんばかりです。同じように、人は隣人愛を実践しないことを正当化するために、他人にとっての益が何であるかわからないからと言い逃れようとしがちです。イエス・キリストのゴールデンルールは、まさにそういう思いになりがちなわたしたちの生き方に、光を当てているのです。
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