聖書を開こう 2005年10月13日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神の国と神の義を第一に(マタイ6:25-34)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 子どもの頃、一週間、一月が中々過ぎなくて、人の一生は延々と続くものだと、少しうんざりした気持ちになったことがありました。大人になった今はと言うと、一ヶ月どころか、一年でさえあっという間に過ぎ去ってしまいます。やりたいこと、やらなければならないことがいっぱいあるのに、あまりにも人の一生は短いと感じてしまいます。

 しかし、最近は人生が長いか短いかということよりも、限られた人生をどうやってよりよく生きるのかということに関心があります。何を大切に生きていくのか、何を中心に据えるのか、このことをいつも考えながら生きていく必要を覚えます。

 きょう取り上げる個所には、わたしたちが第一としなければならないものが何であるかを、イエス・キリストが教えてくださっています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 6章25節から34節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 今、お読みした個所は、6章全体をまとめる役割を果たしているといってもよいと思います。今まで学んできたことの復習になりますが、6章の前半では「施し」と「祈り」と「断食」についての3つの教えがまず取り上げられました。そこで問題となっていたのは、人に見せようとする偽善的な態度でした。それは本来あるべき、神の前で生きる人間の姿とはほど遠いものです。キリストはわたしたちに、神の前で施し、神の前で祈り、神の前で断食することを徹底して望んでいらっしゃったのです。

 そのような生き方とは、天に宝を積む生き方であり、宝のある天に心を置く生き方です。こうして心を高く上げ、神の御心がどこにあるのかを絶えず見ようと、澄んだ心の目で神を見上げる生き方です。そのような生き方とは、つまるところ、神と富とにかね仕えようとして、結局は富の奴隷になってしまうような生き方とは正反対の生き方です。

 最初から神を捨てて、富の奴隷となるような人はそんなに多くはないはずです。むしろ、神に仕えながら、富にも仕えようとして道を踏み外してしまうのです。そうならないために、イエス・キリストはおっしゃいます。

 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」

 確かに人間が生きていく上で、食べること、着ること、というのはとても大切なことです。だからこそ、格言にも「衣食足りて礼節を知る」といわれるほどなのです。本当に食べる物も、着る物もなくなってしまうと、人間は礼儀も節度も失って、人間らしい生き方を失ってしまうかもしれません。着る物も食べる物も、それらが大切なことは誰もが知っていることです。

 しかし、着る物と食べる物が人生の中心ではないことも、誰もが知っているはずのことです。試しに、着る物と食べる物とを十分に保証した上で、無意味な労働をさせつづけるとしたら、どうでしょう。例えば、穴を掘っては埋める単純で無意味な労働を、人は食べたり飲んだり着たりするために毎日延々と続けるでしょうか。きっと嫌気がさしてきてしまうはずです。人間は食べたり飲んだり着たりするために働くのではなく、もっと意味のあることのために生かされているからです。

 しかし、しっかりと神の上に軸足を置いていたはずの生き方が、気がつくといつしか、自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと思い煩い、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩む生き方をしてしまうのが人間の弱さです。

 イエス・キリストはそんなわたしたちに対して、空の鳥、野の花を見るようにと促します。正確には、空の鳥、野の花をお造りになり、今も支えて下さっている神の愛に目を注ぐようにとおっしゃっているのです。鳥や花に対してさえ神の深い慈しみがそうであるとすれば、人間に対して注がれる神の愛はどれ程大きなものがあるでしょうか。

 この神の愛に目を留め、神を見上げて歩む生き方こそが、神の国と神の義をまず求める生き方に通じるのです。

 愛は必ずしも目に見えるものではありません。数量化したり数値化することもできません。それは信じる心で受けとめるものです。信じる心、信頼する思いがなければ愛を感じることも受けとめることもできません。だから、神の愛を受け止めきれないで、思い煩う人のことを、「信仰の薄い者たちよ」とイエスは呼んでいるのです。神の愛を信じ受けとめればとめるほど、恐れと不安とは消え去り、思い煩いから解放されるのです。なぜなら、完全な愛は恐れを締め出すからです(1ヨハネ4:18)

 それに対して、一見、わたしたちの生活になくてはならないような、食べ物、飲み物、着る物などに、わたしたちの軸足を置いてしまうと、わたしたちは無意味でむなしい生き方に陥ってしまうのです。

 イエス・キリストはおっしゃいます。

 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

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