聖書を開こう 2005年9月15日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 祈りの模範(マタイ6:9-15)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教会には長い祈りの伝統があります。特に礼拝や様々な儀式で用いられる祈りには定まったものがあります。典礼書とか祈祷書とか、あるいは式文と呼ばれる書物の中には、そうした機会にふさわしい祈りの言葉が記されています。もちろん、プロテスタント教会の礼拝の伝統の中では、書き記された定まった祈りの言葉よりも、自由な言葉で祈るという習慣も培われて来ました。

 けれどもカトリックもプロテスタントも共通して持っている祈りの言葉があります。それはイエス・キリストが教えてくださった「主の祈り」と呼ばれる祈りです。

 きょうはこの「主の祈り」が記された個所を取り上げることにします。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 6章9節から15節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 だから、こう祈りなさい。

 『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

 きょうは祈りについてお語りになったイエス・キリストの教えの三回目の学びになります。マタイによる福音書6章前半には「施しについて」「祈りについて」「断食について」…この三つのことが取り上げられていました。そして、この三つの教えに共通していたのは、「偽善者のようであってはならない」ということでした。しかし、祈りについてお教えになるときに、イエス・キリストは「偽善者のようであってはならない」ということに加えて「異邦人のようであってもいけない」ということをおっしゃいました。この二つの点については既に二回に分けて学んで来ました。きょうはイエス・キリストご自身が教えてくださった「主の祈り」と呼ばれる祈りの言葉について取り上げたいと思います。

 まず、きょう取り上げた「主の祈り」の言葉は新共同訳聖書の翻訳ですから、実際に礼拝の中でわたしたちが捧げている主の祈りの言葉とは違っています。もちろんそれは翻訳の問題ですから、内容に大きな違いがあるというわけではありません。

 新約聖書の中には、もう一箇所、主の祈りの言葉が出てくる個所があります。それはルカによる福音書の11章です。こちらの方に記されている主の祈りの言葉は、全体的にマタイ福音書に記されているものよりも、さらに簡潔な言葉です。マタイによる福音書の主の祈りの言葉遣いは、どちらかと言うと、礼拝の中で捧げることを意識しているような、厳かな感じがあります。ただ、若干の違いはあるとはいえ、内容に大きな違いがあるというわけではありません。

 それでは、内容について簡単に見てみたいと思いますが、主の祈りは大きく分けて二つに分けることができます。前半は神様ご自身に関わる事柄を、後半は私たち自身に関わる事柄が祈られています。さらに、前半、後半ともに、それぞれ三つの祈願から成り立っています。

 先ず前半ですが、神への呼びかけから始まっています。イエス・キリストは天の神を「われらの父よ」と呼びかけるように教えています。たしかに、それまでの時代、聖書の神を「父」と呼びかける習慣がなかったわけではありません。しかし、イエス・キリストによって特別な意味で神はわたしたちの父となってくださっているのです。この天の父なる神の御前に、わたしたちは祈りを捧げているのです。

 神への呼びかけに続いて、最初の三つの願いは、すべて神様ご自身に関わる事柄です。祈りと言うのは確かにわたしたちに関わる願いを祈りに込めて捧げるものです。しかし、イエス・キリストはまず天の父である神に心を向けるようにと祈りを整えています。

 神に関わる三つの願いとは、「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」という三つです。それは神の栄光が現れること、まことの王様としての神の御支配が完成すること、そして、神の御心がこの地上でも行なわれるようにという願いです。そして、この三つの事柄を深く願う時に、わたしたちの心は自分のためだけに祈る祈り、神に自分の願いを聞き挙げさせようとする祈りから解き放たれていくいのです。天の父なる神に心を向け、神の栄光、御支配、御心を求める祈りこそ、偽善者のようでもない、また異邦人のようでもない祈りなのです。

 最初の三つの願いに続いて、後半で同じように三つの願いが祈られています。後半の三つはわたしたちと直接に関わる事柄です。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」「わたしたちの負い目を赦してください」「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」

 わたしたちに関わる第一の願いは、必要な糧をお与え下さるようにという祈りです。もちろん、必要な糧とは、文字通りのパンばかりではないでしょう。生活に必要なすべてのもがそこには当然含まれていると考えられます。しかし、この祈りは裏を返せば、わたしたちのほんとうの必要をご存知であるお方に、わたしたちのすべてを心から委ねる祈りなのです。必要な糧をくださいと祈りながら、必要でないものをねだってはいないか、神に支えられて生きる自分自身の姿勢が同時に問われる祈りなのです。

 第二の願いは、罪の赦しを願う祈りです。ここでは、ただわたしの罪が赦されることを単純に願うのではありません。わたしと隣人との関係も神の前に置かれているのです。クリスチャンはキリストによって罪が赦されている存在です。その既に赦された者が、隣人との関係で罪を赦せない者になってはいけないのです。そのように罪を赦された者の生き方が同時に問われている祈りなのです。

 わたしたちに関わる最後の願いは、誘惑から解放し、悪しき者から救い出してくださるようにという祈りです。クリスチャンはキリストの救いの業を通して罪が赦された存在です。けれども、罪の誘惑の中にととまりつづけていい存在なのではありません。また、罪の誘惑に打ち勝つことのできる強い存在でもないのです。誘惑からの解放と罪の赦しの願いはいつでもクリスチャンの捧げるべき祈りなのです。

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