聖書を開こう 2005年9月1日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 隠れた天の父に祈る(マタイ6:5-6)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしが高校生のころ、初めて教会の礼拝に足を運んだ時、一番印象的だったのは、礼拝の始まる前に皆が静かに黙祷を捧げながら礼拝の始まるのを待っていたことでした。今まで祈りの生活など一度もしたことがなかった当時のわたしには、とても強い印象として残っています。

 それから、様々な機会に教会で捧げられる祈りに触れ、自分にも人前で祈る機会が巡ってくるようになると、今度は上手に祈れるかどうか、とても心配になって来ました。

 きょうこれから取り上げようとしている個所は、イエス・キリストが祈りについて教えてくださった個所です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 6章5節と6節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

 先週に引き続き、人としての生活にとって大切な三つの事柄を取り上げています。その三つとは「施しをすること」、「祈ること」、「断食をすること」の三つです。きょうは「祈ること」について取り上げます。

 前回もお話しましたが、この三つのことをお話になるときに、イエス・キリストは「偽善者のようであってはならない」ということを共通してお語りになりました。ところが、「祈り」についてお教えになるときに、「偽善者のようであってはならない」ということに加えて、イエス・キリストは「異邦人のようであってはならない」ということも加えられました。この「異邦人のようであってはならない」ということについては、来週取り上げることにします。

 さて、祈る時にわたしたちはどんな点で「偽善者のよう」になってしまうのでしょうか。イエス・キリストはこうおっしゃいました。

 「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」

 ここでは「会堂や大通りの角」という祈りの場所が問題なのでしょうか。確かにイエスはそのすぐ後で「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」とおっしゃっています。しかし、旧約聖書を読んでいると、ユダヤ人の習慣では祈りの時間は一日に数回、定期的にやってくるものでした。例えば、預言者ダニエルは日に三度、祈っていました(ダニエル6:11)。しかも、戸を閉めてではなく、開かれた窓のそばで祈っていたのです。同じように新約聖書の時代でもイエスの弟子たちは一定の祈りの時間に祈っていました。例えば使徒言行録3章1節には弟子たちが午後3時の祈りの時にエルサレムの神殿に昇っていったことが記されています。

 もし、定期的な祈りの習慣が根付いているとすれば、その祈りは日常の生活を営むどの場所でも行なわれたはずです。今日のイスラム教の人々がそうであるように、時間がくれば仕事を中断して祈ったはずです。それが仕事場であったとしても、わざわざ自宅に戻って自分の部屋で祈ったとは考えられません。

 もし、キリストがそのような日常生活のどの場所でも祈ることを禁じられているのだとすれば、祈りの生活そのものが難しくなってしまうでしょう。

 イエス・キリストがここでおっしゃりたかったことは、「会堂や大通りの角」という場所の問題ではなく、その直前におっしゃっているように「人に見てもらおうと」する祈りの動機なのです。

 先週もお話しましたがギリシア語の「偽善者」という言葉のもともとの意味は演劇の「役者」と言う意味です。役者なら「人に見てもらおうと」するのは当然です。しかし、祈りは神に捧げられるものであって、決して人に見てもらうためではないのです。

 従って、イエス・キリストがおっしゃる「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」という言葉も、「奥まった自分の部屋に入って戸を閉める」ということにポイントがあるわけでは決してないのです。そうではなく「隠れたところにおられる」天の父に心を向かわせることが大切なのです。ですから、キリストの弟子たちが午後3時になって祈るために神殿に向かったとしても、それは決して偽善者の祈りにはならなかったのです。

 そもそも、ここで言われている「自分の部屋」というのは、当時のユダヤ人の一般的な家にはそのような個室があったわけではありません。今でこそ日本の家庭でも子どもまで独立した部屋を持っていますから、「自分の部屋」というものがあるかもしれません。そういうイメージの個室をここでイメージしてはいけないのです。

 ルカ福音の11章5節以下にたとえ話が出てきますが、そこにはユダヤの普通の家の生活の様子が描かれています。真夜中に戸をたたく隣人に対して、「子どももわたしの側で寝ているから、面倒をかけないでくれ」と家の主人は言っています。つまり、それぞれに寝室があるような贅沢な家の作りではなかったのです。

 それではイエス・キリストがおっしゃる「奥まった自分の部屋」というのはどこのことなのでしょうか。あえて言えば、それは食べ物を蓄えておく部屋がそうでした。しかし、ここではもっと比喩的な意味で使われているのでしょう。

 わたしの好きな子どもの讃美歌に「祈ってごらんわかるから」という歌があります。歌詞の中に「小川のほとりでも、人ごみの中でも、広い世界どこにいても、本当の神様は、今も生きておられ、お祈りに答えてくださる」というくだりがあります。

 わたしたちは、どこにいたとしても、その場所を神様と向きあう「奥まった自分の部屋」にすることができるのです。人に見られるためではなく、神様に向き合うために、いつでもどこでも、祈りをささげましょう。

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