聖書を開こう 2005年8月25日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 施しをするときには(マタイ6:1-4)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 電車の中吊り広告で雑誌の記事を見ていると、一年の間に取り上げられる特集記事には決まったものがあります。その一つは「賢いお金の貯め方」です。もちろんお金を貯めるのは目的があってのことです。結婚資金であったり、マイホーム購入のためであったり、旅行のためであったり、いろいろでしょう。いずれにしても目的をもって計画的にお金を管理することは大切なことです。ただ、その目的の一つに、自分のためではなく、誰か他の人のために使う施しのお金を自覚的に管理している人がどれくらいいるのだろうかといつも思います。

 きょう取り上げようとする聖書の個所には「施し」についての教えが記されています。ここでは、施しをするかしないかということが問題なのではありません。施しをすることが当然の前提になっている社会でのお話です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 6章1節から4節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

 きょうからマタイによる福音書の6章に入りますが、6章の前半ではユダヤ人にとって大切な三つの事柄が取り上げられます。もちろん、ユダヤ人にとってというよりは、神の前に生きるすべての人間にとって大切な事柄が扱われているのです。その三つの事柄とは、施しをすること、祈ること、そして、断食をすることです。いずれも、イエス・キリストがそのことを取り上げたのは、それらをするかしないかということを巡る問題ではありませんでした。施しも、祈りも、断食も、どれもこれも人間としてなすべきこととして、そういう前提でお話が進められています。「する」ということが前提で、「では、どのようになすべきか」と言うことが語られているのです。

 この三つのなすべきことを語るときに、共通したキーワードが出てきます。それは「偽善者」という言葉です。施すことも、祈ることも、そして断食することも、「偽善者」として振る舞う危険は、どの場合にも付きまといます。

 そもそも、ここで「偽善者」と訳されているギリシア語は、もともとは演劇の役者を意味していた言葉だといわれています。役者と言うのは与えられた役を演じることが仕事です。観客をいつも意識し、観客の喝采を浴びることが役者としての命です。役柄と自分とは同一の人格ではありません。できる限り役柄になりきったとしても、それは役柄の人物の人生を自分のものとするためではなく、見ている人を楽しませ、またそのように楽しんでいる人を見て自分が満足するためです。

 しかし、人が自分の人生と言う舞台で、人に見てもらうために自分以外の誰かを演じたとしたらどうでしょうか。それこそ偽善的な生き方になってしまいます。

 イエス・キリストは施しをする時の注意として、こんなことをおっしゃいました。

 「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」

 実際、イエスの時代に、施しをする時にラッパを吹き鳴らしていた人がいたのかどうかは分かりません。肝心なことはラッパを文字通り吹くか吹かないかではありません。問題なのは「人からほめられよう」とする心です。もちろん、人を褒めることも、人から褒められることも悪いことではありません。褒められることによって、人は健全に成長するものです。

 しかし、イエス・キリストがここで問題にしているのは、施しをする際の根本的な動機の問題なのです。施しとは特に貧しい人に対する施しです。それは施しを行なうだけの経済的な余力を与えてくださった神への感謝の気持ちと、貧しい人を自分のように愛する心から出る自然な営みです。決して、人から賞賛されることを第一の目的として行なうものではないのです。

 結局のところ、施すことを通して、神への愛と隣人への愛が現れてこなければ、その施しは偽善的なのです。

 ところで、この「偽善的である」という批判は、自分自身の行いを判断する時の基準であって、決して他人に向けられるべきではありません。

 「あの人の施しは、どうせ人に見せようとしてやっているに違いない。まったく偽善的だ。自分はあんな施しはしないぞ」…そう心に思う人もいるでしょう。

 しかし、そう思う時点で二つの過ちを犯しています。

 一つは、その施しがほんとうに隣人愛から出ているのかどうかは、神と本人以外は知ることができません。それを人間である第三者が安易に批判したりするのは、隣人愛に反しています。

 第二に、それは自分が施しをしないことを正当化する理由になってしまっていることです。「あんな施し」が、いつしか「どんな」施しもしない理由になってしまうのです。

 確かに、「ほんの一瞬でも褒められたいという思いが心をよぎりはしなかったか」と誰かから意地悪にも尋ねられたなら、誰しもその質問にたじろいでしまうかもしれません。もし、一瞬たりとも心に偽善的な要素が入り込まないことを気にし出したら、施しなど誰もできなくなってしまいます。

 気の迷いが一瞬であるかどうかということをイエス・キリストは問題にしておられるのではありません。一瞬でも人に見せようと言う思いが心をよぎったならば、施すのをやめてしまいなさいとはおっしゃいませんでした。そうではなく、施しをする際の心が、隣人愛に動かされているかどうか、それが問題なのです。もし、施すことをやめるのであるとすれば、その理由もまた隣人愛から出るのでなければ、偽善的なのです。

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