聖書を開こう 2005年8月11日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 恨み憎しみの克服(マタイ5:38-42)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 恨みや憎しみと言う感情は、人間の持っている感情の中でも特別に激しいものです。激しいと言うばかりではなく、一度恨みや憎しみの感情を持ってしまうと、それを処理したり克服することは中々難しいものです。

 もちろん、恨む気持ち、憎しむ気持ちのすべてがいけないのかというと、そういうことではないでしょう。不正や理不尽なことを憎む心は、誰にでも備わっているものであると思いますし、またそういう心があるからこそ、正義の実現に一歩近づくことができるのでしょう。

 けれども、恨みも憎しみもそれを放置しておけば、心のうちに増殖し、増大して、もはや誰もそれを処理できなくなってしまうというのも事実です。

 きょうはイエス・キリストの教えから、恨み憎しみの心をどう克服していくのか、そのことを学んでいきたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 5章38節から42節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

 ここでも、イエス・キリストはまず旧約聖書の引用からはじめています。「目には目を、歯には歯を」と言う言葉は、旧約聖書出エジプト記21章24節などに出てくる掟です。そこにはこう記されています。

 「もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない」

 こういう掟のことを「同害報復法」と呼んでいます。受けた被害と同じ害をもって報復する権利を定めた掟と言う意味です。このような掟は、旧約聖書に限らず、バビロニア法典にも見られ、古代オリエントでは良く知られた定めでした。

 「目には目を、歯には歯を」などと今のわたしたちがが聞くと、少し野蛮な風習のような印象を受けるかもしれません。確かに刑法で定められた刑罰といえば、罰金など財産を剥奪する刑罰か、懲役など自由を剥奪する刑罰かであって、けっして目には目、歯には歯をもって償わせるなどと言うことはありません。あえていえば、生命そのものを奪う死刑だけが、現代にも生きている「同害報復法」の考えかもしれません。そういう法律体系の中に暮らしている私たちにとっては、「目には目を、歯には歯を」という掟が持っている本来の意味を深く考える事がありません。

 そもそも、このような掟が定められた背景には、一つには害悪に対して報復することを当然の権利とする考えがあります。害悪を放置しておけば社会正義が成り立たないわけですから、それは当然といえることでしょう。もっとも、近代国家の大半は個人に代わって国家がその報復をするということで刑法が定められているわけです。

 さて、「目には目を、歯には歯を」という掟が定められたもう一つの背景には、人間の復讐心というものは増大していくものであるということがあります。人の憎しみは時として取りとめもなく大きくなり、目には目以上のものを求めるにまでいたることがあります。ちょっと肩が触れたぐらいで、殺人事件にまで発展することでさえ、今でも珍しくはありません。過剰なまでの復讐心を抑えると言う意味で、「目には目を、歯には歯を」という教えは決して野蛮な教えなのではありません。むしろ野蛮さでは古代人と大して変わりのない現代人にとっても重要な掟なのです。

 ところが、その「目には目を、歯には歯を」という古くからの教えに対して、イエス・キリストはさらに一歩進んだことをおっしゃいます。

 「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」

 もちろん、ここでイエス・キリストがおっしゃりたかったことは、害悪に対する報復そのものを否定するということではありません。もし、そうであるとすれば、神が罪に対して報復し罰を下すことは、キリストの教えと矛盾してしまいます。また罪人の身代わりとなって罰を受けた十字架のキリストも何の意味も持たなくなってしまいます。

 ここで問題になっているのは、どうにも御しがたい人間の恨みや憎しみの気持ち、簡単に度を越えてしまう人間の復讐心なのです。「目には目を、歯には歯を」という掟が持っている本来の意義を深く考えさせるために、イエス・キリストはあえてこのようなことをおっしゃっているのです。

 悪人に手向かわないというのは、何を言ってもやっても無駄だから手向かわないのではありません。あるいは、ただ、無抵抗主義で機械的に反対の頬を向けるのでもありません。そうすることで、自分自身の中に増殖しようとする恨みや憎しみと戦うのです。

 この自分の心のうちにある恨みや憎しみとの戦いにはひとつの大きな前提があります。それは、神こそが正義であり、神こそが真の法複者であるということです。その確信があるからこそ、報復を神に委ねてもなお満ち足りていることができるのです。そう確信することで、くすぶりつづける恨む気持ち、憎しむ思いから解き放たれるのです。

 それともう一つ、神こそが正義であるという確信は、裏を返せば、人間の正義感は時として独り善がりであると言うことでもあるのです。恨む気持ちが膨れ上がり、憎しむ思いが募る時には、相手のことなど考える余裕がなくなってきます。すべて相手に非があることが前提で自分を正当化し、自分こそが正しいと思ってしまうのです。

 神こそが正義であるとする考えは、自分はひょっとしたら間違っているかもしれないと考える余裕を与えます。反対の頬をも打たれながら、何故自分が叩かれているのか相手の立場でものを見たり考えたりする余裕を与えます。相手の立場でものを考え、左の頬をも差出し、上着をも与え、さらに一ミリオン余計に歩くことで、相手を理解する機会が与えられるのです。相手を理解できれば消えうせてしまう恨みや憎しみというのは、案外多いものなのです。

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