メッセージ: 教えと宣教といやし(マタイ4:23-25)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
教会のあるべき姿は何か、ということは色々な機会に取り上げられ、再確認されます。もちろん、その答えは一通りではないはずです。教会の第一の務めはこの世に対して神の言葉を解き明かし、神の国の福音を宣べ伝えることにあるということを強調する人もいることでしょう。あるいは、教会とは何よりも神を礼拝し、信徒同士の交わりをなす場であることを強調する人もいるでしょう。あるいは、また社会に対して教会が果たすべき責任により多くの関心を抱く人もいることでしょう。たとえば正義と公平の実現のために教会が果たすべき役割や、隣人愛の実践に教会が果たすべき指導的な役割に、より多くの関心を注ぐ人もいます。そのどれか一つが教会のあるべき姿を描いていると言うよりは、そのどれか一つでもないがしろにされるならば、真の教会として立ち行くことはむずかしいでしょう。
さて、きょう取り上げようとしている個所は、イエス・キリストの宣教活動を包括的に簡潔に語っている個所です。この短い個所を学ぶことは、キリストの宣教活動を引き継ぐ教会にとってとても有意義なことであると思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 4章23節から25節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
今、お読みした個所は、イエス・キリストの活動を簡潔に報告した記事です。このマタイによる福音書を読み始めたばかりの読者にとっては、ここで初めてイエス・キリストの活動の概略を知ることになります。
今までマタイ福音書は、洗礼を受けてからのイエス・キリストの足取りについて、ほとんどわずかしか記していません。洗礼を受けた後、荒野でサタンから誘惑を受けたこと、洗礼者ヨハネが逮捕されたことを聞いて、ガリラヤに退かれたこと、また、その時から神の国の宣教を開始されたこと、そして、その宣教活動のために幾人かの弟子を召し出されたことなどです。
イエス・キリストの具体的な働きについては、もちろん、この後マタイ福音書全体を使って詳しく書き綴られていくわけですが、先ほどお読みした個所は、いわば前書きのように簡潔にイエスの初期の活動全体を言い表しています。
それによれば、イエスの活動は三つのキーワードで言い表されています。その三つとは「教えること」「宣べ伝えること」それから「いやすこと」です。
「教えること」と「宣べ伝えること」とは、厳密に区別されるべきことというよりは、むしろ、神の国の福音宣教を表す一連の活動と言った方がよいでしょう。「宣べ伝える」というのは、漢字で書いてしまうと「宣伝」です。しかし、聖書がいう「宣べ伝える」というのは、ただ広告宣伝のビラをまくと言うだけのことではありません。もちろん、ビラやチラシをまくことが無駄なこととは言いません。しかし、イエス・キリストが神の国の福音を宣べ伝えるときには、教えることが伴っていたのでした。福音を伝えることと、教えることは切り離して考える事ができないのです。
昔読んだある本の中で、「キリスト教の伝道は教育的な伝道である」ということが書かれていました。キリスト教会の伝道が「教育」であるというのは、少し硬い表現かもしれませんが、しかし、「教えること」がなければ、宣教も伝道も成り立たないと言うことをよく表現していると思います。そして、それはまさにイエス・キリストによって示された模範でもあったのです。イエス・キリストはユダヤ教の会堂を教えながら巡り歩き、神の国の福音を宣べ伝えたのです。
今日、キリスト教の伝道は難しいと言われています。けれども、キリスト教の伝道が簡単だった時代などなかったはずです。歴代の教会は、この「教える」ということに力を注ぎ、そのようにして福音を述べ伝えていったのです。
ところで、神の国の宣教活動は、「教えること」と「宣べ伝えること」で、ほぼ完璧と言えるような気もします。忠実に神の言葉を教え、福音を宣べ伝えさえすれば、それが立派な宣教活動であることを疑う人はいません。それ以外のたくさんのことにキリスト教会が手を出せば、教会がなすべき本来の働きがぼやけてきてしまうという警告と懸念の声はいつの時代にも聞かれます。
しかし、イエス・キリストの宣教活動の全体を言い表すキーワードは「教えること」と「宣べ伝えること」のほかに「いやすこと」を加えています。ここでは、民衆のありとあらゆる病気や患いがいやしの対象でした。もっと具体的には悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者などのいやしです。
このことから直ちに「医療伝道」も教会には欠かすことができないと結論すべきではないでしょう。もちろん、欧米のキリスト教会による日本の宣教の歴史には、医療伝道が果たした大きな役割があったことを否定することはできません。キリシタン伝来の頃、大分で医療活動をしたイエズス会士のアルメイダや、プロテスタント教会が日本に入ってきた頃、医療伝道に励んだ長老派のヘボン博士の活躍は有名です。
しかし、イエス・キリストの宣教活動のキーワードである「いやし」を狭い意味での医療活動ということに限定して理解すべきではないでしょう。ましてや、奇跡的な癒しの行為を教会が率先してなすべきだと極論すべきでもありません。
イエス・キリストが病人や苦しむ者たちを癒されたのは、隣人愛の実践だったのです。イエス・キリストの宣教活動は、ただ、言葉や教えだけのものではなかったのです。人々に仕え、愛することを通して、神の国の到来を告げ知らせたのです。
このことに関して、今日の教会がイエス・キリストの宣教活動から学ぶとするならば、それは奇跡を起こす力を習得することではありません。隣人に仕え、愛する心です。その心がなければ、神の国の福音を宣べ伝えることはとてもむなしいことです。
「教えること」と「宣べ伝えること」に伴って、こよなく隣人を愛し、癒されたイエス・キリストの宣教活動にわたしたちの今日の教会も従うものでありたいと願います。
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