おはようございます。清和女子中高等学校の中山仰です。
神は見えません。でも神の愛は、見えるのです。神の子イエス・キリストが人となって、この地上にお出でになられたからです。それがクリスマスです。
ルカによる福音書2章のクリスマスの記事には「見る」という言葉が何回も出てきます。クリスマス全体の出来事が見た者の証言なのです。
ある聖書の訳には、天使がマリアに告げた言葉に「恐れるな、見よ」とあります。
天使はまた、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と乳飲み子を「見つける」ことが証拠となっています。
そして、突然天使が現れ羊飼いたちに「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と讃美した後、羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と見て確認する証言者になっています。
しかし、彼らが見たものは王であり救い主である方なのに、貧しく低い有様でした。真の救い主は、私たちの救いのために徹底的に仕えてくださる方であることを知ります。
障害を持ったある女の子の詩をご紹介します。
【クリスマスおめでとう】
おじちゃん、クリスマスおめでとう。イエス様がお生まれになったので、こんな私も幸せです。私のことをいつも憂えていたお母さん、私を恥じて語らなかったお母さん、「わたしは悲しく思いました」。この頃のお母さんは、本当に明るくなりました。神さまの証しに、きっと私のことも語ります。「私はこの子を抱いて、暗い寂しい旅を続けました。喜びも望みもない、暗い寂しい旅でした。その旅で優しいイエス様に会いました。それからは、いつも優しいイエス様と一緒です。」
「神さまは生きておられます」。お母さんは、一つ覚えに語ります。私のことで、神様の御名があがめられるならば、今日も明日も語ります。お母さんは「神さまは、生きておられます」「神さまは愛してくださいます」「イエスさまありがとう。イエス様がお生まれになったので、こんな私も幸せです。」
どんなに不幸せと思っている人でも、暗い心の人も、イエス様を信じ、イエス様を心に迎えると、喜びが心がいっぱいになるのです。イエスさまはまことの救い主だからです。
私たち罪人の救いのために真の人となられた主キリスト・イエスが私たちを見ていてくださる。このお方を真の救い主として、お生まれになられたということを見続けることが許されています。
ローマの皇帝アウグストゥスのような強大な権力など全くお持ちでない幼子イエスさま。クリスマスの夜に、豪華な宮廷でなく、華やかな産着もなく、飼い葉桶の中にオムツにくるまれて、誰に認められることもなく、産声を上げられたイエス様。
しかしそこに神の恵みの支配が始まったことを見る目は幸いです。私達の魂を無理矢理滅びの中へ突き落とすことなく、まさに全ての人の顔から涙を拭おうとする神の戦いがここに始まったからです。
主イエス様は生涯の最後に、私たちの救いのために十字架に付けられました。その時、両側に付けられた強盗の内の一人が、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったとき、主イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」と言われました。まだ主が十字架で息を引き取っていないのに、「今日わたしと一緒にパラダイスにいる」と約束してくださる永遠の命の力をお与え下さるお方であることが分かります。。
クリスマスの喜びに包まれる者、つまりイエス様を救い主キリストと受け入れる者にとっては、間違いなく「今日」「今」パラダイスにいるのです。その喜びを私たちに見せてくれるのがクリスマスです。
東北地方のある村に、小さいときに小児麻痺にかかり、手も足も曲がり、知恵遅れとなって、学校にも行けなくなった一人の女の子がいました。16歳になっても、小学校一年生くらいのことしか分からない。この人は文子さんという。彼女の家は、その地方でも有名な古い家柄でお金持ちだった。その分だけ余計に他の人の目や世間体を気にかけていた。だから、文子さんもお母さんもいつも悲しく、自分たちの不幸を嘆いていた。何度一緒に死のうかとしたか分からない。
ところが、この文子さんがある日、生まれて初めて聖書のお話を聞いた。難しい話は何も分かるはずはないのに、不思議に聖書のお話だけはよく分かった。「イエスさまは神さまの独り子であったのに、世界の人たちを救うためにこの世に来られ、彼らの罪の身代わりとして十字架にかかって死んでくださったこと。三日目に墓の中から甦り、今でも生きておられる神様であること。そしてこのイエス様を救い主と信じる者は、一人も滅びないで天国に行けるのだということが分かった。」
ついに文子さんは洗礼を受けてクリスチャンになった。救われて最初のクリスマスはどんなに嬉しかったことだろうか。文子さんはその喜びを詩に表した。自分では字が書けないから、お母さんが代わって、文子さんの口から出る言葉を書いた。