イエス・キリストの誕生していた頃にシメオンという老人がいました。彼は信仰が篤く、「メシアに会うまでは決して死なない」というお告げを受けていました。そこへ誕生から33日後、法律の定めによって、イエス様を主にささげるためにマリアとヨセフが神殿にやって来ました。彼らが腕にしている赤ちゃんのイエス様を抱き上げて賛美した言葉が「シメオンの賛歌」と言われ、聖書に記されています。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万人のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」という内容です。
老人になると希望を失う人の多い中で、彼は必ず来られると約束された救い主を信じて待っていました。信仰者は、歳をとっても、主にお会いできる喜びに満たされて、力をもってこの世を渡ることができます。暗い闇夜の向こうに必ず朝の光が差し込んでくるという強い確信を彼は持ちとおすことができました。それはなぜでしょうか。
シメオンの言葉は、単に彼個人の信仰の賛美ではありません。預言ともなっています。当時、彼らユダヤ人たちは巨大なローマ帝国の支配に苦しんでいました。人々はローマからの解放を願い、救い主が現れることを切に待ち望んでいました。ですから、目の前の救い主であるイエス様に期待したからといって、普通の人ならば「万人のための救い」まして「異邦人を照らす啓示の光」とまでは言うことができなかったはずです。であるのにシメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望み」つつ、その救い主との出会いにおいて、この方が一民族だけの救い主ではなくて、全世界の救い主であるということを賛美しているのです。その期待と喜びは、通常の範囲を超えて、感極まって、まさに真の全世界お救い主の誕生であるということを心からほめたたえているのです。だからこそ、彼は安らかなうちに天に召されていくことを心から喜んでいるのです。
シメオンはまた母親のマリアに対して「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」といって、この救い主イエスというお方への態度一つで立ちもし倒れもするということを言っています。これは、真の救い主が誕生されたのだから、信じても信じなくてもよいという中途半端は許されないという厳しさです。
私たちもイエスというお方の前で、立つか倒れるかの、永遠の命をかけた洗濯を決断しなければなりません。イエスを救い主として信じるか否かで、私たちの心が神から判断されるのです。
それは、貧しく低く人となられ、馬小屋に生まれた方は、自らをささげる十字架への道を歩まれた救い主だからです。それは人も家畜も長子をささげるという規定は、初めに生まれたものは神のものとして神にお返ししなければならないという律法で決められていたことです。動物の長子はそのままいけにえとしてほふられますが、人間の場合には身代わりの動物をささげます。普通の人は身代わりとして羊かヤギをささげましたが、貧しい人たちは鳩でよかったのです。主は貧しく低く、私たちに徹底的に仕えるために、貧しい様に生まれ、実際に鳩しかささげることのできない家庭に育ちました。完全に人間として私たちに仕えるために必要な父なる神の御意志でした。遂には、全ての人の不完全さが赦されるために、ご自身をただ一度十字架につけて下さったのです。ですからクリスマスは、信じる者にとっては完全な、確かな、確実な救いの喜びとなります。