おはようございます。山下正雄です。
「神様って本当にいるのでしょうか」…そういう質問をよく受けます。そして、その質問の背景には様々な思いが込められています。神様などもとから信じていない人にとっては、その質問は、神様などいないということを確認するための質問です。しかし、そもそも「神とは何か」ということがわからないまま、その神がいるかいないかということを問いかけても、ほんとうは答えの出しようがありません。あえて答えるとすれば、「あなたの考えるような神はいませんね」としか答えようがないのです。
これは神様の存在を最初から信じている人にとっても同じことがいえます。いったい、その神様とはどういうお方なのでしょうか。何だかわからないけどいるような気がするというだけのことなのでしょうか。やはり、その人に対しては「そういう神だったらいるのかもしれませんね」としか答えようがありません。
あるいは、「神様って本当にいるのでしょうか」という質問は、辛い経験から搾り出されることもあります。「神様がほんとうにいるなら、どうしてこんなに辛い事が起るのでしょう」…こういうかたちで質問を受ける時もあります。確かにこの世の中には神の存在を疑わせるようなことが次々と起っています。そういう苦しみの最中にある人に対しては、その苦しみを共感する以外にどんな説明も空しく響いてしまうかもしれません。しかし、ここでほんとうに問題なのは、やはり神様とはどんなお方なのかということが分からなければ、答えの出しようがないということなのです。
では、この「神様ってほんとうにいるのでしょうか」という質問にどう答えるのでしょうか。もちろんわたしはキリスト教会の牧師ですから、「神はいらっしゃる」と言うのが私の答えです。しかし、結局、その答えは、神様ご自身がご自分についてどう語っていらっしゃるかと言うことに、耳を傾けることからしかはじめることができないのです。
これはちょっとおかしなことのように聞こえるかもしれません。しかし、神が語ることに耳をふさいでいたのでは、神そのものを理解することもできないのです。
哲学者のデカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言いました。あらゆることを疑ったとしても、そう疑っている自分の存在を疑うことはできないのです。確かに、自分の存在を疑い始めたら、哲学は成り立ちません。それと同じように、聖書を通して語りかけてくださる神の言葉を疑いはじめたら、信仰など成り立たなくなってしまうのです。もし、デカルト流に言うとすれば、「神語る、ゆえに神あり」なのです。この世には様々な嘘偽りが満ちています。あらゆる物を嘘だと否定したとしても、語って下さる神の存在は否定できないのです。
「神はほんとうにいるのでしょうか」…この質問に最終的な答えを下してしまう前に、ぜひ、聖書の中で語っておられる神の言葉に耳を傾けてください。必ず神はご自分がどういうお方であるのか、聖書を通してあなたの心に語りかけてくださいます。この語り掛けに素直に耳を傾けるなら、「神様は本当にいるのでしょうか」という疑問はきっとあなたにとって最初に解決しなければならない疑問ではなくなってしまうと思います。むしろ、神様の存在を前提としてこの世の中を見渡す新しい視野と視点とが与えられることと思います。ぜひ、このような新鮮な目が与えられるように、聖書を読みつづけてください。