キリストへの時間 2005年11月6日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下正雄(ラジオ牧師)

山下正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 「聖書は鏡」

 おはようございます。山下正雄です。

 今、この番組を聴いてくださっているあなたは、ご自分の姿をご自分の目でゆっくりとご覧になったことがおありでしょうか。おそらく、毎日一度は鏡を見て、おかしなところがあれば身なりを正して出かけていらっしゃるのではないかと思います。もっとも鏡というのは向き合った姿の自分しか見ることができません。それで、あらゆる方向の自分を見ることはそう簡単なことではありません。自分の後姿がどうなっているのか、真上から見た自分はどう見えるのか、鏡で確かめることは難しいものです。

 最近では家庭用のビデオも普及していますから、自分の姿をいろいろな角度から見る機会も多いのではないかと思います。そして、初めてテレビの画面に映しだされた自分の姿を見て、大抵の人は自分の姿に失望してしまいます。もちろん、映画スターほど格好いい自分の姿を期待する人は少ないでしょう。それにしても、現実の自分はもう少しはましだと大抵の人は思っているようです。

 客観的に自分を見ると言うのは、ほんとうに面白いものです。もしこの世の中に鏡やビデオがないとすれば、みんな自分のおかしさに気がつかないまま、平気で歩きまわっているかもしれません。

 さて、外に見える姿は、それでも鏡やビデオで映すことができますから、自分で自分のおかしさに気がつくことができます。しかし、人の内側の姿、その人の物の考え方や感じ方は、それを映し出して眺める鏡がありません。自分の内側のことだから、自分が一番良く知っているというのは、一番当てになりません。思ったこと、感じたことを紙に書き出して自分で眺めたからといって、自分のおかしなところに気が付くものでもありません。外側に見える自分の姿さえ、自分では気がつかないことがある人間が、自分の内側にまで目が届いているとは、到底思えないのです。

 では、人間はどうやって自分の内側にあるものがおかしいということに気がつくのでしょうか。一つには他の人の内側にあるものに触れることによってです。たくさんの人と交流を持てば持つほど、自分のどこがおかしいのかということが見えてきます。しかし、それとてもあくまでも相対的な評価でしかありません。皆がおかしくなってしまえば、「赤信号。みんなで渡れば恐くない」ということさえ、おかしいと感じられなくなってしまうことだってありえるのです。

 では、どうすれば自分の内側の姿を正しく知ることができるのでしょうか。それは聖書という書物に自分の姿を照らして眺めてみることによってできます。聖書を読み、聖書と対話しながら人生を歩む時に、自分の現実の姿を客観的に見ることができるようになるのです。聖書は神様についての必要な知識を与える書物ですが、それに劣らず、私たち人間を映し出す鏡でもあるのです。

 もちろん、聖書に自分を照らして読むのは、自分の内側の姿に失望するためではありません。そうではなく、自分の現実の姿を知って、必要な手立てを講じるためです。聖書は私たちの姿を映し出す鏡であるばかりか、何をどうしたらよいのか、その必要な方策も教えてくれているからです。しかし、自分の現実に気がつかない限り、自分にとって必要な事柄も決して見えてこないのです。

 鏡やビデオで自分の姿を見ることに抵抗を感じるように、聖書に照らして自分の姿を知ることに抵抗を感じる方もいらっしゃるかもしれません。確かに自分の内面を知っても、それを変えることができないなら、意味のないことです、しかし、聖書を与えてくださった神は、私たちの内側も変えることのできるお方なのです。

Copyright (C) 2005 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.