私が結婚する前にある宣教師夫人が様々の不思議な事を話され、お祈りが聞かれた事を何度か聞かされました。
『子どもが小さかった時、牛乳を充分に買ってやれなかった事があり、"どうか子どもに必要なミルクを与えて下さい。"と祈っていたら、朝起きてドアを開けると、不思議に牛乳の瓶が並んでいたのです。それは知人が置いていってくれたものでした。』とか、『子どもが大きくなるにつれて服がきつくなった時も、祈りました。−クリスマス前に余る程の衣服が友人から送られて来たのですよ。』等々。
信仰の浅かった私は、確かにあの方は心の美しい方で、神さまが助けて下さったのかも知れないけれど、半分作り話のようだわ、と思いながら聞いていた事がありました。
その様な不信仰の私に神さまは牧師の妻になるという道を備えておられました。牧師夫人になることを求める神は、そんな話から逃げようとしてさえいた私に、主がそう決めておられたのだなと思うと、覚悟を決めて委ねて行かねばならないと思いました。家からは反対されながら決心をしたので一言も苦情を言ったことはありません。お粥にお醤油をかける位の食事の時もある事を覚悟して出発したのでした。
二人の男の子を授かりましたが、母乳の出が悪く、特に二人目は三ヶ月位で人口栄養に切り替えなければなりませんでした。さて、粉ミルクをずっと買い続けることが出来るだろうか、と不安になりましたが、それより神さまは必ず必要を満たして下さると信じて祈りました。粉ミルクに切り替えなくてはならなくなった事を聞いて、何とある婦人はずっとそれが必要な間中ケースで送って下さったのです。本当に以前に作り話のようだわ、と聞いていた自分が恥ずかしくもあり、神さまに心から謝りました。
牧師の生活は特にはじめは大へんでしたが、不思議に必要なものは与えられ、経済的に苦しいためにお粥にお醤油だけということはなかったのです。
神さまがアブラハムが百歳、サラが九十歳の時に男の子を授けると告げられたとき、心の中で"こんな歳になって生まれる筈はない。"と思い、笑ったという記事が創世記17章にありますが私もアブラハムとサラのように、そんなことってあるかしら、と疑いの笑いがあった事を思い出します。
祈りは本当に聞かれます。しかし、いつでもすぐに自分の期待通りにきかれるとは限りません。神様が与えて下さる時を待つことも必要です。
私が祈っても祈っても希望通りにならなかったり、手に入らなかったこともあります。しかし、それらは必要な物ではなかったのだと思います。若い時、ピアノがとても欲しかったのですが、キーボードで充分であると教えられました。祈っても祈らなくても一緒だと言う人もいますが、それは間違いです。すべて神さまは祈りに耳を傾けて下さいますが、最もよい時に、最もよいものをくださる事を素直に信じましょう。