おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書に出てくるモーセと言う人物は、イスラエル民族をエジプトでの奴隷状態から解放した偉大な人物として知られています。
旧約聖書によれば、モーセに率いられてエジプトを出たイスラエル人の数は壮年男子だけで60万人だと記されています(出12:37)。その数がほんとうに正しいのかどうか、歴史家たちはやや疑いの眼差しを持っています。というのは、それだけの人を横に60人ずつ並べたとしても、一万列の隊列になってしまい、前後50センチの間隔に一万列並べればその長さは5キロメートルにも及んでしまうからです。女性と子どもを加えればその長さは倍近くになってしまいます。しかも、60人が横に並ぶのですから道幅も30メートル近くなければ移動は不可能です。横に並ぶ人数を減らせば、ますます隊列の長さは増してきます。下手をすれば、先頭が葦の海に達した時には、一番後ろの人間がまだエジプトを脱し切れてないということも起りえます。これではどう考えても現実的ではないと歴史家は考えているようです。
さて、ことの真偽はさておくとして、モーセが率いた群衆の人数は、一人の人がすべてに目を届かせることができるほど、小さな群れではありませんでした。出エジプト記の18章には、民衆の相談を受け付けるモーセがてんてこ舞いになる様子が描かれています。人々はモーセの判断を仰ごうと朝から晩まで行列を作って待っています。行列ができる法律相談所などといって喜んではいられません。見るに見かねたモーセのしゅうとエトロはこう言いました。
「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。」
そこで、モーセのしゅうとエトロはモーセに助言して、民の中から有能で信頼できる人物を選び出させました。その人たちに小さな裁判を任せるようにしたのです。実はこのエトロの提案は今のわたしたちにも大きな示唆を与えるものだと思います。
第一に、ここでは一人の人間に仕事が集中していないか、そのことを冷静に判断することが求められています。もちろん、有能な人であれば、自分に集中した仕事をてきぱきとこなせるでしょう。しかし、それにも限度があるのです。限度を越えれば、自分自身が壊れてしまいます。その見極めができているかどうか、この提案はわたしたちに問い掛けています。
第二に、この提案はモーセのためばかりではありませんでした。それ以上に民衆のことにも配慮をした提案でした。一人の人が一日にこなせる仕事の量は、限界を超えてしまえば、どうすることもできません。その仕事から恩恵を受けていた人たちは、ひたすら待たされるだけになってしまうのです。エトロのなした提案は、自分の働きが誰のためのものであるのかを考えさせる提案だったのです。何のための働きなのかを見失ってしまうならば、どんなに忙しく体動かしたとしても、それはむなしい働きなのです。
第三に、この提案は仕事を分担することの喜びを学ばせる提案であると同時に、仕事を任せることのできる人を常日頃から育てる提案でもあるのです。誰にも仕事を任せられないと思うのは傲慢な思いです。また、本当にそうだとすれば、いかに人を育ててこなかったかと言うことでもあります。
聖書が教える日常的な知恵に照らして、自分と関わりのある組織のあり方を少し点検してみてはどうでしょうか。