キリストへの時間 2005年9月4日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下正雄(ラジオ牧師)

山下正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 「祈りに支えられて」

 おはようございます。山下正雄です。

 旧約聖書の中には時々ユーモラスな場面が出てきます。その場面に登場している人々にとっては生きるか死ぬかの真剣な場面なのですが、神様のやり方に思わず可笑しさを感じてしまいます。

 その場面とはエジプトを出てきたイスラエル人たちが、荒れ野での旅の途上で、アマレクの人たちから戦いを挑まれた時の話です。それまでイスラエルの人々はエジプトで奴隷のように働かされていた人々です。体力も筋力もあったでしょうが、しかし、戦いの経験があったというわけではありません。兵力に優れていたというわけでもなければ、戦術に長けていたというわけでもありません。後にモーセの後継者となるヨシュアを隊長として、戦うことのできる男子が選び出されて、戦いに出陣しました。

 残念ながら、この戦いの詳しい様子は何一つ聖書には記されていません。相手の数がどれくらいだったのか。どんな武器を使っていたのか。どっからどのような戦術を使って攻めてきたのか、そんなことにはまるで関心がないかのように、一言も記しません。

 では、何が記されているのかと言うと、この戦いのためにモーセは丘の頂に立って、ずっと両手を上げて神に祈り続けたということです。一日中、両手を挙げるというのはとても大変なことです。自分の腕なのに、疲れてくるとその重さに耐えかねて、だんだんと手が下がってきてしまいます。

 もちろん、両手を挙げて祈ろうが、下げて祈ろうが、祈りのポーズが祈りの効力を左右するはずはありません。

 教会の礼拝のおしまいには牧師は祝祷を捧げて礼拝に集った者たちを送り出します。ある牧師は両手を万歳の時のように挙げて祝祷をします。別の牧師は片方の手だけを挙げて祝祷を捧げます。そうかと思えば、まったく手を挙げないで祝祷を捧げる人もいます。しかし、それによって祝福が半減したりということはないのです。

 しかし、モーセがこの戦いのために祈った時はそうではありませんでした。そこが聖書の神のユーモラスな計らいとでも言うのでしょうか…。モーセの腕が疲れて、手が下がってくると、優勢だったイスラエルが敵に押し返されて、だんだんと戦況が不利になってきます。また、気を取り直して、手を挙げると、再びイスラエルが優勢になってくるのです。何だか漫画でも見ているようです。そして、とうとうモーセは自分の腕を支えきれなくなって、今度は岩の上に腰を下ろし、二人の人に両方の腕を支えてもらって、日の暮れるまで両手を上げて祈りつづけたのです。

 一体どうして神はこんなことをなさったのでしょうか。イスラエルを勝たせるおつもりなら、最初からそんなまどろっこしいことをなさらなくても済んだはずです。

 思うに、これはイスラエルの人々の「信じる心」を養うための特別な計らいだったに違いありません。戦いが終わった後、聖書の神はこの事件を文書に書き記して、この戦いの指導者であったヨシュアに読み聞かせるように命じています。このヨシュアは後にモーセの後継者となる人物です。モーセも、ヨシュアも、そしてすべてのイスラエルの民も、神こそが歴史を導いておられることを、しかと知らなければならないのです。しかし、その事実は信仰によってしか受けとめる事ができないものです。さらに、その神への信頼は祈りによってだけ表明されるものなのです。この基本的なことを学ばせるために、神はあえてそのような方法をおとりになったのでしょう。

Copyright (C) 2005 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.