山田教会牧師、泥谷逸郎です。
私はこれまで、キリストは再び来られることをお伝えしました。そして、その日は宇宙の終わりの日でもあることを告げました。その日が来るしるしについてキリストが教えてくださったこともお伝えしました。それから、宇宙の終わりの日にはどのようなことが起こるか、ということもお話ししました。これらのことは、これからの人類の歴史の中に必ず起こることです。真実の神さまであられるキリストが宣言しておられますから、必ずその日は来ます。それゆえ、最後の審判者として再来されるキリストご自身が私たちに、油断せず、目を覚まして、その日がいつ来てもよいように準備していなさい、と忠告しておられます。「目を覚ましていなさい」というのは、もちろん、夜も寝ないで起きていなさい」ということではありません。「終わりの日がいつ来てもよいように、備えをしていなさい」という意味です。キリストは一つのたとえお話しになりながら、私たちに「目を覚ましていなさい」と忠告してくださっています。
十人のおとめたちがそれぞれ灯火をもって、花婿を迎えに出て行きました。その内の五人は愚かで、五人は賢い女の子でした。愚かな娘たちは、灯火は持っていましたが、予備の油を用意していませんでした。これは、私たちの習慣で言えば、提灯は用意しているが、予備の蝋燭を準備していないのに似ています。また、懐中電灯は持っているが、補充用の電池を持っていないのと同じです。テレビもラジオも新聞も、南海地震のための準備として懐中電灯と予備の電池を同時に用意しておくように、としきりに助言してくれています。地震に対して「目を覚ましていなさい」と忠告してくれているのです。イエスさまの喩え話しでは、結婚式は夜行われています。
五人の賢いおとめたちは、灯火と一緒に予備の油を用意して、いつ花婿が来てもよいように予め準備していました。その夜、花婿の来るのが遅れました。おとめたちは皆眠気がさして眠り込んでしまいました。真夜中になって、「花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がしました。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれの灯火を整えました。ここで、愚かなむすめたちは大変なことに気づきました。灯火の油が切れそうになっていたのです。そこで、彼らは賢いおとめたちに言いました。「油を分けてください。私たちの灯火は消えそうです。」賢い娘たちは答えました。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って自分の分を買って来なさい。」賢い娘たちが意地悪だったので、このように言ったのではありません。予備のものは小さな油壷でしたから、分けると本当に灯火を灯し続けることができなかったのです。
愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿は到着しました。用意ができていた五人の娘たちは、花婿と一緒に婚宴の席に入ると、戸が閉められました。この後で、ほかの娘たちも油を買い整えて戻って来て、「御主人様、御主人様、開けてください」と呼びましたが、主人の答えはこうでした。「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない。」
この喩え話しの結論としてキリストが言っておられるお言葉は、こうです。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」「終わりの日は来ない」とか、「来るとしてもまだまだ」と勝手に判断して、「滅びるのではなく、救われなさい」と呼びかけておられるキリストのお言葉を無視してはなりません。終わりの日は何時来るか私たちには知らされていないのですから、信仰の用意をして待ちましょう。そして、滅びではなく、永遠の命をキリストから頂こうではありませんか。