おはようございます。清和女子高校の山脇です。
今朝は、コリントの信徒への手紙一の12:14から私達はキリストにつながる体の一部であるということについて考えてみましょう。この14節には「体は一つの部分ではなく、多くの部分から成り立っています。足が、私は手でないから体の一部ではないといったところで、体の一部でなくなるでしょうか。」と書かれています。一つの例えですが少し考えてみて下さい。
皆さん、自分の顔を鏡に写して見て下さい。目の上にまゆがなかったら、スポーツをした時の汗はそのまま目の中に入ってしまうでしょうね。また、まつげがなかったら、目の中にゴミがそのまま入ってしまうでしょうね。目が一つだったらどうでしょうか。右や左を幅広く見ることができなく、非常に視野のせまい生活をしなければなりません。また、鼻の穴が二つなかったら風邪を引いた時など、鼻づまりを起こしてしまってとっても大変ですね。そして口が二つあればどうなるでしょう。右と左のの口が同時に食事をしたいと、大変忙しい食事の仕方になることでしょうね。でも、そんなことを考えているとたのしくなりませんか?口が目の上にあったら、スープなどを口に入れるのが大変でしょうね。全ての体の各部分の働きを、一つ一つ考えた時、すばらしく計画的につくられていることに気がつくことでしょう。手の指が5本あることも、足が2本あることも肺が2つあることも全てが、人が、善きように生活することが可能であるようにつくられています。いったいこのすばらしい体は誰が作ったのでしょうか。
神様が自ら人の体をつくり、いのちの息を吹き入れて生命ある者として、創造されたことが、聖書の創世記1章には書かれています。そして、体全体が目であれば、どこが聞きますかと書かれています。神様は、私達に一人一人が、よき働きをし、お互いに仲間を尊重することによって、物事が成り立っていくことを教えてくれています。日常生活の中でも、お父さんは力が強いから子供に向かって力の弱い者はいらないとは言えません。むしろ力の強いお父さんの心をやわらげてくれるのは、小さい子供の笑顔です。仕事で疲れ果てて帰ってくるお父さんに「お帰りなさい」と手をさしのべる小さい子どもの笑顔は、お父さんの疲れを一ぺんに吹き飛ばしてくれることでしょう。また、若者が自分のありあまるエネルギーを、どうしようもない時に、年老いた祖父母のことばや行動を見ることによって助けを求めることによって、若者はそのエネルギーを何に使ったらよいか学び、やさしい笑顔と共に、手を差しのべることでしょう。そのような交わりが家庭の中であって、はじめて家庭のきずなは深まっていくものです。
1コリント12:21からこのように書かれています。「目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」ともいえません。それどころか体の中で、ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と書かれています。
便利な世の中になりました。全てが合理的に処理され、まるで時間とコンピュータに管理されているような世の中の生活ですが、今、少し立ち止まって、私達は縦、横の連ながりを持つゆとりの時間を持ちたいものです。私達はキリストにつながるものとして、神様から与えられた、この体の一つ一つが、お互いをたいせつに思いやって、いたわりあって、神様によって、一つの交わりができることを喜びとすることができるなら、なんとすばらしいことでしょう。26節には一つの部分がくるしめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。と書かれています。今後もキリストにつながる体の部分としての働きを、お互いに祈り合って、おこなえることを、お祈りしています。