おはようございます。清和女子高校の山脇です。
今朝は聖書のマタイによる福音書7章7〜8節「求めなさい、そうすれば与えられる、探しなさい、そうすれば見つかる、門を叩きなさい、そうすれば開かれる、誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者は開かれる」という御言葉を覚えたいと思います。
門を叩きなさい、そうすれば開かれると書かれています。はじめてよそのお家を訪問する時には玄関口でごめん下さい、こんにちわと門を叩くのに勇気がいりますね。親しくしている友達の家でも、今門を叩いていいかしら、となかなか決心が必要です。ましてやはじめてお訪ねするお家などではなおさら、そしてそれが教会となればなかなか勇気がいるものではないでしょうか。
私も高校時代に清和女子高校で日曜日には教会に出席するという教育を受けていなければ、おそらく教会生活とは無縁な生活をしていたのではないだろうかと思うことがあります。高知市の本宮町にあった清和女子高校は当時は高校のみの小さな学校でした。学校の横にある「ダウド」寮での生活は、日曜日には全員教会に出席、それぞれが日曜学校や礼拝に出席し、神様を信じ、受洗をする生徒も多くいました。
私の入学した最初の頃の寮で、ある日曜日におもしろい事件が起きました。朝早く起きて教会に出席するということは、若い私達には決心のいることでした。ある日曜日に教会から帰ってくると同級生が大騒動をしています。彼女の手足にはスミで大きく〇×など落書きがされているではありませんか。寮生の皆が教会に出てしまった後で彼女はもう一度寝入ってしまったのです。早く帰ってきた同室の上級生が彼女の寝ているのを見て教会をサボッタ罰としてスミで落書きをしたものです。それ以来、彼女は毎日曜日には教会出席をするようになりました。
寮でも生徒たちの司会で礼拝が守れていました。青春の時に教会に出席することが習慣化された私たちは卒業しても自然と教会に足を運ぶことができました。また、教会から離れてしまった友達も青春の日に聖書にふれ、御言葉を学んだことが人生の土台になっているということを、よく話してくれます。清和女子高校という小さな学校の門を叩き中に入れてもらった私は、ここで人生の歩む目的は何であるかという一番大切なことを学びました。聖書のページを、ページ毎に門を叩くようにゆっくりと、かみしめて読んでいると、神様の存在や人に与えられた生命のことや、私達の罪のために十字架にかかって下さった、イエス・キリストの愛が痛いほどよくわかります。
神様は聖書を通して私達に語りかけて下さっています。求めなさい、そうすれば与えられる、真実の愛と永遠の生命が、と教えて下さっています。どうか教会の門を叩いて下さい。そこには永遠の生命を与えて下さる神様がいらっしゃることを教えて下さいます。そして私達の歩む人生の道を教えてくれます。山の中の小さな村で育った私が清和女子高校で聖書を学ぶ機会が与えられたことは、私に与えられた人生の最大のプレゼントであったと感謝しております。あなたも神様の導きの門を叩いて下さい。