キリストへの時間 2005年6月26日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下正雄(ラジオ牧師)

山下正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 「不平と不満」

 おはようございます。山下正雄です。

 モーセの生涯の中で一番の見せ場は、なんと言っても紅海を渡るシーンでしょう。海の水が真っ二つに割れ、乾いた海の底をモーセに率いられたイスラエル人たちが渡るシーンです。追っ手のエジプト人に今にも追いつかれそうになり、ハラハラさせられるような緊迫した場面で、神は思いもかけぬ方法でイスラエルの民を救われたのでした。そのことは旧約聖書の出エジプト記に記されているばかりではありません。旧約聖書の詩編の中でも、この神の偉大な御業が称えられ、しばしばこの出来事に言葉が及んでいます。それほどにイスラエル民族にとってこの出来事は記念すべき事件だったのです。

 けれども、こんなにも民族の記憶の中に深く根をおろした一大事件でありながら、その出来事を実際に経験した世代の人々が、こともあろうに、いとも簡単にこの出来事の偉大さを軽んじてしまうのです。こうもたやすく神の恵みと力を忘れてしまうその恩知らずの姿を訝しくさえ感じてしまいます。

 エジプトに寄留していたイスラエルの人々は、奴隷同然の暮らしを余儀なくされていました。その苦しみから解放され、しかも、まさに奇跡的な神の助けによって救い出されたのです。だれでも、そんな大きな神の業を目の当たりにしたならば、一生その恵みを忘れないと思うに違いありません。

 しかし、人間の気持ちとはいかにいい加減でふがいないものであるのか、聖書は容赦なく人間の現実の姿を描いているのです。

 奴隷の地エジプトから逃れてきたイスラエルの人々はしばらくの道のり荒れ野の中を旅しなければなりませんでした。飲み水にも食べるものにも不自由を感じてきます。それでも、奴隷として重労働を課せられていたエジプト時代と比べれば、はるかに自由の恵みを味わうことができたはずです。しかし、彼らは今味わうことのできる恵みを忘れてこう叫んだのです。

 「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」

 ここで言われていることがどこまで本当のことなのか、知る術もありません。ほんとうにエジプトにいた頃の方が食料にも事欠くことなく、幸せだったのでしょうか。目の前の小さな苦しみのために、過去のことさえ正しく評価できなくなっているだけのことかもしれません。「昔は良かった」ということぐらいなら、誰にでも言えることです。そもそも、ここで言っている不平は、ただの責任転嫁に過ぎません。もしも、本当にエジプトで幸せな暮らしを送っていたのならば、モーセに従ってエジプトを出なければ良かっただけのことです。

 不平と不満…それは感謝と讃美の裏返しです。神の恵みに感謝する気持ちが薄れる分、不平が忍び寄ってきます。神がなしてくださった数々の恵みの業を讃美する気持ちの薄れるところに、不満の思いが募ってくるのです。

 神が偉大な奇跡をなしてくださらないから不平や不満の思いが湧き出てくるのではありません。それならば、既に神はイスラエルの前で何度も大きな奇跡を行っているのです。そうではなく、神の恵みの業を感謝して受け止め、この神を心からほめ称える思いのないところに、不平と不満とが忍び込むのです。もし、昔は良かったというのであれば、昔の時代を導いた神の恵みに感謝し、その同じ神が今も働いて恵みを注いでくださることに期待すべきなのです。感謝の満ち溢れるところでは、どんな小さな神の御業でさえも、勇気と希望を与えるのです。

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