キリストへの時間 2005年6月19日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下正雄(ラジオ牧師)

山下正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 頑なな心

 おはようございます。山下正雄です。

 聖書を読んでいると、しばしばとてもスケールの大きな場面に出会います。特に旧約聖書の物語にはそういった場面がたくさん出てきます。映画監督でなくても、こういう場面を読んでいると頭の中にスペクタクル映画のシーンが浮かんできてしまいます。十戒で有名なモーセの生涯と深く関わりのある出エジプト記にはそういう壮大な場面が満ち溢れています。

 出エジプト記の7章から11章にかけて、モーセとエジプトの王ファラオとの対決シーンが繰り広げられています。対決シーンと言うと何だか物騒なイメージですが、それは頑ななファラオを説得するために展開される大掛かりな仕掛けだったのです。いえ、実は頑なな心を解きほぐして要求を受け入れさせると言うよりは、ますますファラオの心が頑なになって、とうとう要求を飲まざるを得なくなるところまで行ってしまうお話です。

 そもそも、どんな要求をモーセが持ってきたのかというと、それは、エジプトで奴隷として働かされていたイスラエル民族に暇を与えて、聖書の神を礼拝させるために旅をさせて欲しいと言うものでした。それは小さな願いと言えば小さな願いですが、ファラオにとっては頑として受け付けることのできない要求だったのです。

 このファラオに対して、一体どんな大掛かりなことを仕掛けたのかと言うと、例えばこんな災いがエジプトの地に降りかかるようにとモーセは振る舞ったのです。それはエジプト中の川や池の水を血変え、そこに住む魚も死んで悪臭を放つと言う災いです。しかし驚くべきことには、エジプトに住む魔術師も秘術を用いて、モーセがしたのと同じことをやってのけてしまうのです。これでは、ファラオの心も動じないのも無理はありません。モーセが行った奇跡はちょっとした秘術を使えば誰でもできることとファラオには映ったのでしょう。

 モーセはこのような災いを次々にエジプトに降りかからせ、ついにはエジプト人の魔術師たちも手に及ばないような不思議な業でファラオの心を動かそうとしたのです。エジプトではあちこちに蛙がはびこり、ぶよや虻の大群が押し寄せ、家畜には疫病が蔓延し、人々は腫れ物で苦しみ、雹で農作物はやられ、そんな災いを数え上げれば両手の指の数にも及ぶほどでした。現代人には滑稽なほどの災いです。

 そもそも、同じようなことが今、誰かの手によってもたらされたとして、果たして心を開いて相手の要求を受け入れるかと言えば、決してそうはならないだろうと予想されます。これは神がモーセに語ったことと同じことです。

 「わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。」

 昔も今も、人の心の頑なさには変わるところがないのです。奇跡が起これば、しるしがあれば信じるというほど人間の心は単純ではないのです。しるしを見せれば、そのからくりのトリックを疑い、奇跡を見せれば、それは単なる自然現象だと片付けてしまう…それほどに人間の心は頑なに閉ざされているのです。もちろん、その頑固さは必ずしも悪いことばかりではありません。疑うことによって騙されないということもあるでしょう。しかし、信じなければいけないところで、信じることができない心の頑なさはやはり悲しむべき事柄です。

 モーセとファラオの対決は一大スペクタクルシーンです。何が一番大きいかといえば、それはほかならぬ頑固な人間の心なのです。結局、この壮大な物語のシーンで見せつけられるのは、どうすることもできないほどのわたしたちの心の頑なさなのです。

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