おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書に登場する指導的な人物を見ていると、案外弱気とも思える発言をしていることがあります。その人物が成し遂げた偉大な業績から考えると、とても想像することができない弱々しい言葉です。
旧約聖書のモーセと言えばだれもが力強い姿を思い浮かべます。西洋美術の作品に登場するモーセも、老人の姿で描かれることはあっても、決して弱々しい姿で描かれることはありません。そのモーセは、神から召し出されて特別な使命を授かった時に、こう言ったのです。
「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」
この言葉を見ていると、この人物がやがて偉大なことを成し遂げることになる人物とは想像もつきません。何だか逃げ腰のような印象を受けます。
もちろん、モーセがこんなことを言ったのには、色々な背景を考える事ができるでしょう。文字通りモーセが口下手で弁の立たない人間だったと決め付けることはできません。第一、神様に対してこれだけのことを言えたのですから、話の下手な人間ではなかったでしょう。ただの謙遜でこんなことを言ったとも考えられません。
そもそも考えても見れば、このときのモーセはかつて犯した殺人事件のために身を潜めていた生活だったのです。少なくとも、エジプトの王様には居場所を知られたくはなかったはずです。そんな人物がいくら神のご命令だと言っても、おいそれと王様の前に姿をあらわすことは危険すぎます。できることなら、その仕事は避けたいと思うのが道理でしょう。
仮に逃亡の身でないとしても、神がモーセに与えた仕事は一人の人間が背負うには重過ぎます。奴隷同然のように働かされているイスラエル民族を代表してエジプト国王のもとへ行き、民を解放してくださいなどと誰が恐れずして言えるでしょうか。少なくとも、今のモーセには妻も子どももいて、平穏無事な生活が続いているのです。このまま今の生活を送ることができさえすれば、あえて、そんな大仕事を引き受ける理由などどこにもないのです。当然モーセは色々な理由をつけては、この与えられた仕事から逃れようと懸命なのです。
いずれにしても、このようなモーセの姿には、後の偉大な指導者の姿を見て取ることもできません。けれども、それでも神はこのモーセを立ててご自分の民を救い出そうとされたのです。神は腰を引くモーセにこうおっしゃいました。
「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。」
もし、人間が何か自分の力でできると思うなら、それこそ指導者としては失格なのです。神が選び、神が力を与え、神がお遣わしになるからこそ、リーダーシップを発揮することができるのです。
神は今でもわたしたちを小さなモーセとしてお遣わしになることがあります。それはわたしたちにとっては決して快い仕事ではないかもしれません。わたしたちの力量を超えるように思われる仕事かもしれません。けれども、神がお遣わしになるならば、決して恐れることはないのです。いえ、どんな働きでも、今遣わされているこの働きが、神から与えられた貴い務めと思い、お遣わし下さった神に力を与えてくだ去るようにと願う心が大切なのです。