キリストへの時間 2005年5月8日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山村貴司(南与力町教会牧師)

山村貴司(南与力町教会牧師)

メッセージ: 「人生という道のりの目的は?」

 おはようございます。

 人生は長い道のりを歩んでいくようなもの、といわれます。そこには、丘があり、谷があり・・・、山があり、平地がある・・・、一本の道です。人は何のためにその道を歩んでいるのか? その道を歩む目的と意味とは何なのでしょうか?

 聖書にある金持ちのたとえ話が出てきます。彼は一生懸命働いたのでしょう、彼のもとには穀物と財産が溢れ、彼はそれを倉の中へ蓄えていきました。彼はなお一生懸命、汗水たらして働いたのでしょう、彼のもとにはさらに穀物が溢れたので、彼はさらに大きな倉を作ってそれを蓄えていきました。

 さて、この彼はいったい何のために人生を歩んでいるのでしょうか? つきつめて考えてみると、彼は自分のために人生を歩んでいるのであり、自分の倉を満たすために道のりを歩んでいる、ということができると思います。

 しかし聖書を見ると、この世の道のりには、もう一つの目に見えない倉があることが教えられています。それは自分のための倉でなく、隣人のための倉であり、慈しみや愛の倉ともいえる神様の倉です。人にとって本当の喜びとは、このような慈しみや愛の倉ともいえる、神様の倉に富を蓄えることではないでしょうか。

 かく言う私もかつて自分の倉に富を蓄える生活を送っていました。20歳代、無心論者の画家として、私はパリで生活していました。当時私は、ただ自分自身のこと、自分自身の名誉のことしか考えずに生きていました。一生懸命働いて、油絵を描いていましたが、その日々の食卓はなぜか薄暗いものでした。今思えばそれは人生の目的が見えていなかったからだと思います。

 私はその時、ヒルティーという人の「眠れぬ夜のために」という著書の中のある言葉に出会ったのです。そこには「人生の唯一の目的は、地上に神の国を、つまり不和や生存競争の国ではなく、愛の国を、愛と平和の国を築くことにある。人はこの事業に協力する限りにおいて、人生に真の目的と意味を得ることができる。」愛と平和の国を築く・・・。それは自分自身の倉に富を蓄えるのではなく、隣人のための倉に富を蓄え、慈しみと愛の倉ともいえる、神様の倉に富を蓄えること、ということができるでしょう。

 私たちの旅路の究極の目的は、慈しみと愛の倉ともいえる神様の倉に富を蓄えるためにあります。丘を越え、山を行く時、どうか私たちが今日、目に見えない神様の倉に富を蓄えることができますように。

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