愛する者の死、肉親とのこの地上での別れはとても辛く悲しいものです。特に長年、同じ屋根の下で共に生活し、苦楽を分かち合ってきた者との別れは、残された者にとって今後の人生についてある種の無気力と虚脱感さえもたらします。「死」は、愛する者と私達を引き裂き、乗り越えることのできない壁となって立ち塞がります。この時、私達は、死という悲しい現実を受け入れるしかなく、どうすることもできずに、ただ無力さを覚えるだけです。死は、神から離れた罪の報酬として人類にもたらされたものです。私達人間にとって死は、恐怖をもたらす最大の敵です。
しかし、イエス・キリストは、ご自分が私達人間に代わって十字架にかかって死んで下さっただけでなく、三日目に死人の中から復活されたのです。イエス・キリストは、死の力に打ち勝たれ、死を滅ぼされたのです。ですから、イエス・キリストを信じる者にとっては、死はもはや支配しません。
さてイエスが、愛する友ラザロが危篤であるとの知らせを受けてベタニア村にかけつけた時には、もうすでにラザロは死んでおり、墓に葬られて四日もたっていました。残された姉妹マルタとマリヤが悲嘆に暮れており、多くの村人が彼女たちを慰めようと弔問に集まっていました。しかし、死という厳しい事実を前にして人間はどうすることもできません。ただ、悲しみの中にある遺族を慰めることしかできないのです。
マルタは「終わりの日の復活」は信じていました。彼女にとって、復活とは、「終わりの日」すなわち、世の終わりの時に、神を信じていた者は復活させられるであろうという、遠い将来に実現する事として考えていたのです。しかし、イエス・キリストは、最愛の弟ラザロを亡くし、悲嘆に暮れているマルタに言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と問われました。イエスは、マルタがはるか遠い将来に起こるであろうと期待していた復活がすでに目前に迫っていることを明らかにされたのです。今、目の前におられるイエス・キリストご自身こそ、復活の源であられ、命そのものなのです。神から離れて死ぬべきものとなった人間は、常に死を担って、死を恐れながら生きています。この人間に新しい命を与えるために、イエスはこの地上にこられたのです。イエスがもっている命は永遠です。
イエスを復活であり、命であると信じる者は、たとい、肉体の死を経験しなければならないとしても、なお生きることができ、決して滅びることはありません。イエス・キリストを信じる者にとって、肉体の死は、すべての終わりではなくて、永遠の命の始まりなのです。イエスのマルタへの問いかけは、私達への問いかけでもあるのです。
私達は、生まれてから今日まで、日一日と確実に死に向かって生きています。死が死で終わらないために、死に勝利する道を、イエス・キリストは私達に備えて下さったのです。イエス・キリストに連なるならば、イエスを信じるならば、死んだ者も復活させられ生きている者は、いつまでも死なないのです。今日は復活節、イースターです。イエス・キリストが、死人の中より復活されたことを記念する喜びの日です。イエス・キリストは今も生きて働いておられるのです。