おはようございます。
私は、海をぼんやりと眺めるのが好きです。特に、高知県の太平洋に面した浜辺に立って、激しく打ち寄せる白波をみていると、時間がたつのも忘れる程です。時折、数人の若者たちが季節を問わず、波に身を任せながら気持ち良さそうに、あたかも水面上を歩いているかのようにサーフィンを楽しんでいる光景を目にします。波の動きに上手に乗ることが出来なかったり、身体のバランスを崩してしまうと、すぐに海面に叩きつけられてしまいます。
私達の信仰生活も似たようなところがあります。イエス・キリストの弟子たちは、イエスに命じられるまま、舟に乗せられ、ひと足先にガリラヤ湖の向こう岸に渡ることになりました。しかし、逆風のために波に悩まされていました。弟子達の中にはガリラヤ湖で長年漁をしてきた熟練の漁師も何人かいましたが、その彼らにも、今回の風と波はあまりにも激しくて、船の舵取りに手こずっていました。夜が明ける頃になっても、彼らはまだ漕ぎ悩んでいました。するとその時、湖の水面を歩いている人影が見えたのです。夢か幻か、弟子達は一様に「幽霊だ」と思い、恐怖に包まれました。実はそれは幽霊ではなくて、彼らの主イエスでした。イエスは湖の上を歩いて弟子達の所に来ようとしていたのです。私達は、平素は屈強かつ怖いもの知らずのように見えても、予期せぬ問題、艱難に遭遇すると、我を見失い、ただ徒らにあわてふためいてしまいます。この時の弟子達もまさに、この状態にあったのです。
イエス・キリストは、狼狽する弟子達に「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけられました。弟子たちは、イエスの声を聞いて自分を取り戻し、自分達の目の前におられるイエス・キリストを見て、不安と恐れから解放されたのです。それだけではありません。弟子達の代表者であると自認していたシモン・ペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と言いました。ペトロは、一刻も早くイエスのもとに行きたいとの思いからでしょうか、大胆かつ途方もないことを願いました。イエスはペトロに、「来なさい」と言われました。ペトロは早速、舟から降りて、水面に足をおろしました。ペトロはイエスの呼びかけに信仰をもって答えたのです。そしてペトロは不思議なことに沈むことなく、一歩また一歩とイエスに向かって足を進め、近づくことができたのです。
ところがしばらくして、彼は急に沈みかけました。それは彼の周囲を吹き抜けていく強い風を見て、怖くなったからです。イエスはすぐに手を延ばしてペトロを捕まえて助けて下さいました。そしてイエスは、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とペトロの不信仰をたしなめたのです。
確かに、ペトロの心と目がイエスにのみ向けられている時は、恐れはありませんでした。しかし彼がイエスから心と目を離したとき、つまり、イエスに対する信仰のバランスがぐらついた時、恐れが生じて沈んだのです。私達も信仰生活をおびやかす周囲の事柄に心を奪われたり目を向けると沈んでしまいます。信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリストだけを見つめ、目を離さないでいるならば、決して沈むことはないばかりか、確かな一歩を踏み出すことができるのです。