おはようございます。安芸の芸陽教会牧師、宮武輝彦です。今朝も、皆さんとご一緒に神とキリストのみ言葉に耳を傾けていきましょう。
イエス・キリストは、ある時、群衆を見て山に登られ、弟子たちにこのように言われました。
「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」とやさしく語りかけ、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」とさとしてくださいました。
わたしたちは、自分の命のこと、自分の体のことでほんとうに多く思い煩うものです。もちろん、自分の命のこと、自分の体のことに健全な関心をもつことは大切なことです。自分の将来を思い巡らし、そのために必要な計画を立てること、また、適切な運動をしたり、食事をして体を大切にすることは良いことです。しかし、それが行き過ぎると、わたしたちは自分のことばかりに関心を払って、回りが見えなくなったり、明日のこと将来のことに、しばしば不安を先取りして悩んだりするものです。
でもこのように弱く、自分のことに関心が集中しがちなわたしたちのことをイエス・キリストは良くごぞんじです。そして、わたしたちの目を、「野の花」や「空の鳥」に向けさせるのです。そして、そこに、まことの神さまの養いを見るように勧め、命じるのです。
冬の季節は、春の芽生えの季節に備えている時期ですが、徐々に、草花の息吹を感じていくことができます。イエス・キリストは、まさに、わたしたちの新しい命を与えることによって、一切の思い煩いから解放されて、新しい命を喜ぶようにと、わたしたちを招いておられます。
イエス・キリストは「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と約束してくださいました。イエス・キリストは自らの十字架刑における死と復活をこのみ言葉において語られました。それは、ちょうど、一粒の麦が芽生えて、多くの実を結ぶように、わたしたちの内に、神さまの祝福をもたらすのです。このキリストの祝福に、みことばに信頼することによってあずかるとき、わたしたちは、思い煩う者、自分の命を第一にして悩む者から、神さまに生かされていることを第一にする者へと変えられます。このとき、わたしたちは、神さまがこのわたしを養ってくださっていることをこころから感謝する者となるのです。
「あなたがたの天の父はこれらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものがみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自ら思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」マタイ6:32−34。