BOX190 2005年12月7日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「教理は何故必要ですか」 ハンドルネーム・ユエさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ユエさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「はじめまして。教会に通っていてわからないことがありますので質問します。教理はどうして必要なのでしょうか。聖書だけが神様の言葉であるとしたら、教理の本を持つことは、聖書のほかに信じるものを持つことにはならないでしょうか。また、教理があるためにたくさんの教派が生まれてしまうのではないでしょうか。」

 ユエさん、はじめまして。ご質問ありがとうございました。ユエさんのご質問はキリスト教会にとってとても大切な問題だと思います。というのはキリスト教会の歴史は教理の歴史といってもよいくらい、教理とキリスト教は深く結びついているからです。

 さて、先ほどから「キョウリ」という言葉を使っていますが、キリスト教に馴染みのない方にとっては、いきなり「キョウリ」といわれても、どんな漢字で記されるのかピンと来ない人もいるかもしれません。「キョウリ」とは「教え」という漢字に「理論」の「理」と書きます。「教理」という言い方のほかに「キョウギ」と言う言い方もあります。こちらは「教え」という字に「義理人情」の「義」と書きます。「教理」と「教義」は厳密には違うことを指しますが、きょうはこの二つを厳密に区別しないで、どちらも「教会の決定による公的な教え」という意味でそれらの言葉を用いることにします。

 さて、世界のキリスト教会にはたくさんの教派が存在しています。その中で自分たちが何を信じているかを記した信条を持っている教会を信条教会と呼んでいます。カトリック教会や改革派教会・長老派教会は典型的な信条教会です。プロテスタント教会の中にはユエさんが考えるように聖書さえあれば、他に教理を持つ必要がないと考えている教会もあります。

 では、教理を持つ教会はどうして教理を持っているのでしょうか。そのことをお話したいと思います。もっとも、同じように信条を重んじるカトリック教会と改革派教会も厳密には教理に関しての考え方が違いますから、これからお話することは、わたしが所属している改革派教会の場合のことだということを予めお断りしておきます。

 そもそも、教会が一つの共同体として一致できるのは、信仰の一致があるからです。聖書自身も「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」と言っています。エフェソの信徒への手紙4章5節の言葉です。何を信じているのか、みんながバラバラだとしたら、教会は決して一つにはなることができません。そこで、プロテスタント教会では聖書だけが信仰と生活の唯一の基準であると信じてきました。何事も信仰にかかわることは、聖書がなんと語っているか、それを重んじてきたわけです。それならば、ユエさんのおっしゃる通り、聖書だけあれば十分ではないかということになると思います。そこのところの誤解を解くために、もう少し丁寧に教理の必要性についてお話しておかなければなりません。

 教理の本や明文化された信条を持たないという教会は、当然、自分たちが何を信じているかを表明しない教会ということではありません。わたしの知る限り、教会の礼拝で聖書朗読以外に聖書の解き明かしを一切しないという教会はありません。どんなプロテスタント教会でも礼拝の中で、必ず聖書の解き明かしである説教がなされます。もし、聖書だけで十分というのであれば、聖書を朗読すればそれだけで信仰の一致が得られるはずです。もっと細かいことを言えば、翻訳された聖書はそれ自体が聖書の解釈を含んでいますから、ヘブライ語の旧約聖書とギリシア語の聖書を朗読するのでなければ、そこに人間の解釈が入り込んでしまうということになるでしょう。

 しかし、聖書だけが信仰と生活の唯一の基準であるという意味は、聖書の字面に意味があるのではなく、それが何を言っているのかに意味があることは言うまでもありません。だからこそ、聖書主義の教会は聖書が何を語っているかが分かるように、各国の言葉に聖書を翻訳し、さらに礼拝の中で御言葉を朗読するだけではなく、その意味についても解き明かすわけです。

 ここまでの点については、教理を持たないと主張する教会の方たちにも当然のこととして受け入れていただけるのではないかと思います。

 さて、普通、礼拝の説教を担当するのはその教会の牧師です。その牧師が聖書を正しく解き明かしているとすれば、正にそれだけで全世界の教会に信仰の一致が生まれるはずです。もちろん、わたしは教会に対する聖霊の導きを信じていますから、牧師たちの説教を正しいものとして、基本的に信頼しています。しかし、現実にはこの世の中の牧師という牧師が全員、同じ聖書の個所を同じように解釈しているわけではありません。もし、その状態を放置しておけば、それぞれ自分の好みの説教者の教会を選んで集まるということはあっても、教会全体の一致ということはありえなくなってしまいます。もちろん、それ以上のことを必要としないと考える人もいることでしょう。

 しかし、信条や教理を持つ教会では、この聖書の解釈をただ牧師個人に委ねるのではなく、教会の会議でいったいどの理解が正しいのかを検討します。そうして出来上がったものが信条や教理と呼ばれるものなのです。

 もちろん、この会議で話し合われるのは、聖書の解釈ですから、聖書に何か別のものを加えるというのではありません。一人の説教者が教会の礼拝の中でしている聖書の解き明かし以上のことをするというわけではありません。ただ、違うのは、より多くの人が正しいと考える聖書の理解を、聖霊の導きの下に共同して探求するということです。牧師個人の判断よりも、共同して到達した見解の方がより重んじられるべきだと考えるのは理にかなっているのではないでしょうか。もちろん、一度決まった教会の公式の見解は絶対に覆すということができないものではありません。そういう意味では、教理は聖書とは違って絶対的なものではありませんし、また、聖書を離れては意味のないものなのです。

 こうして、教会に公式な教理が出来上がるということは、一人の聖書解釈によって教会が右に走ったり左に走ったりという危険から教会を守ることができるという点で必要なことです。さらに、この教理と対話することで、聖書解釈を前進させたり深めたりすることもできるのです。教会が教理を持つということは、結局は教会の歴史に働いて下さっている聖霊の働きを見分けていくことではないでしょうか。ヨハネの手紙一の4章1節に記された「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊か確かめなさい」という厳粛な命令を、教会は教理の作成をすることで果たしてきたのだと思います。

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