BOX190 2005年11月23日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「主の癒しについて」 愛知県 A・Yさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は愛知県にお住まいのA・Yさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「敬愛する山下正雄先生。いつも放送を楽しみに拝聴させていただいております。さて、今回は『主の癒し』ということについてお尋ねしたいと思い、ペンを走らせております。あるクリスチャンの方々は『病は罪の結果』と言われます。河野進先生の『病まなければ』の詩の後半の一節に『病まなければ私は人間でさえもあり得なかった!』とあります。神様の前でのへりくだった信仰の姿勢を感じ、好感が持てます。山下先生は『聖書に立脚した主のいやし』についてどのように考えられますか。どうかお聞かせください。」

 A・Yさん、ほんとうに長い間、番組を聴きつづけてくださってありがとうございます。お便りを読ませていただいて、きっとA・Yさんにはこの短いお便りには書ききれないほどのいろいろな思いがあるのだろうなと感じました。

 ところで、お便りの中に出てきた河野進牧師の「病まなければ」という詩ですが、番組をお聴きの方の中にはご存知ない方もいらっしゃるかもしれません。せっかくの機会ですからご紹介したいと思います。

 「病まなければささげ得ない祈りがある 病まなければ信じ得ない奇跡がある 病まなければ聞き得ない御言(みことば)がある 病まなければ近づき得ない聖所がある 病まなければ仰ぎ得ない聖顔(みかお)がある おお、病まなければ、私は人間でさえもあり得ない」

 ほんとうに心に染み入る詩ですね。わたし自身がこの詩をどこまで作者と同じ深みで味わっているかは自信がありません。きっとわたし自身が今よりずっと年老いてからこの詩に触れるとき、もっと深くこの詩を味わうことではないかと思います。

 さて、「癒し」と言う言葉ですが、「癒す」という動詞の形では古くから一般の国語辞典にも載っています。ところが「癒し」という名詞の形で一般に使われるようになったのは最近のことではないかと思います。たとえば、「癒しの音楽」とか「癒し系のアイドル」などの使われ方をよく耳にします。たいてい、その場合の「癒し」と言う言葉のもっている意味は、精神的な安らぎをもたらすような、そういう癒しをさすことが多いように思います。もちろん、キリスト教会の用語や聖書の中には、最近の流行よりももっと以前から「癒し」と言う言葉が使われていました。

 そこでキリスト教会で用いられてきた「癒し」という言葉ですが、それは、必ずしも聖書がいっている「癒し」とは一致していないように思います。そう言ってしまうと誤解を与えてしまうかもしれません。少し説明をさせてください。

 キリスト教会、とくに聖霊の特別な働きを強調するカリスマ的な教会の人たちが「癒し」という言葉を使う時には、病気の奇跡的な治癒のことや、またそれを行なう特別な賜物のことを念頭に「癒し」と言う言葉を使っています。もちろん、聖書にも病気の奇跡的な癒しについて語られていますし、そういう特別な賜物についても語られています。一番典型的な例は、イエス・キリストが行なった様々な病気の癒しに関わる福音書の記事です。イエス・キリストはペトロの姑が高熱に苦しんでいるのを癒されたことをはじめとして、大勢の人たちの病を癒されました。また、パウロがコリントの教会に宛てて書いた手紙の中には「病気をいやす力」「病気をいやす賜物を持つ者」について語られています(1コリント12:9,28)。ですから、「癒し」と言う言葉が聖書の中で「病気の奇跡的な癒し」と言う意味で使われているということは間違いではありません。しかし、聖書が「癒し」について語っているのはそれだけではありません。

 たとえば、旧約聖書の詩編の中ではこんな使われ方もしています。詩編147編2節と3節です。

 「主はエルサレムを再建し イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んでくださる。」

 ここでいう「癒し」は文字通りの病や傷の癒しではありません。打ち砕かれた、落胆した心の癒しです。精神的な意味での癒しです。しかし、それはただ単に精神的な癒しや慰めという以上に、神との破壊された関係の修復をも含んでいます。

 例えばイザヤ書57章18節と19節ではこう言われています。

 「わたしは彼の道を見た。 わたしは彼をいやし、休ませ 慰めをもって彼を回復させよう。 民のうちの嘆く人々のために わたしは唇の実りを創造し、与えよう。 平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。 わたしは彼をいやす、と主は言われる。」

 聖書が述べる「癒し」と言う言葉は、単に身体的な傷や病気の癒しと言う以上の深みを持った言葉です。イエス・キリストは「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」とおっしゃいました。イエス・キリストの様々な奇跡はただ奇跡であることに意味があるのではなく、それによって神の国の到来が告げられ、神との壊れた関係が修復されつつあることを証しているところに意味があるのです。そういう意味で「癒し」と言う言葉を病気の「癒し」だけに特化して語ることには賛成できません。

 さて、身体的な意味での病気の癒しだけが、聖書がいう癒しのすべてではないことは、パウロの例からも分かります。パウロには取り除いて欲しいトゲがあったといわれています。そのためにパウロは必死に祈りましたが、それでもその願いは聞き上げられませんでした。そのトゲは癒されはしませんでしたが、パウロは弱さの中で力強く働く神の恵みを知ることができました。そういう意味で、パウロは神の豊かな交わりの中で生かされている自分を知ることができたのですから、聖書的な意味で最高の癒しをいただいたといってもよいと思います。それは、番組の最初で取り上げた河野進牧師の詩にも繋がるのではないかと思います。肉体的な病が癒される癒されないということを超えて、そこに神のご臨在を感じ、まさに共にいてくださる神を実感できるとすれば、これ以上の癒しはないのではないでしょうか。

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