タイトル: 「神は何を見ているのですか?」 愛知県 S・Uさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は埼玉県にお住まいのM・Mさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「私には疑問があります。私の知っている高校の教師は『景気をよくするためには戦争をしなくちゃならん』などと真顔で言うような人ですが、彼は祝福されています。私は体を壊したために、働くこともままならず、最低の暮らしをしています。もちろん結婚も子供を持つことも生涯ありえないでしょう。普通の幸せは私には与えられていないのです。
いったい神は何を見ているのでしょうか? 多くの普通の人には微笑みかけて、私に対しては目を瞑っているか昼寝を決め込んでいるのではないですか? 病気を与えることによって生きながらにして人生を奪うようなことが神には許されるのでしょうか? 納得がいかないです。先生のお考えを聞かせてくだされば幸いです。」
S・Uさん、番組をいつも聴いていて下さってありがとうございます。S・Uさんからのメールを読ませていただいて、様々な思いが私の頭の中を駆け巡りました。そして、何をどうお話したらよいのか頭の中は今でも混乱したままです。その混乱した頭の一番大きな原因は、いったい私が誰の立場に立って質問に答えようとしているのか、その軸足がふらついていることにあります。
メールを読ませていただいて、最初に私の頭の中に浮かんだことは、神様に代わって私が何か神様を弁護する答えをしなければという不遜な思いでした。というのも、S・Uさんには大変失礼なことなのですが、S・Uさんのメールを読ませていただいて最初に感じたことは、S・Uさんのメールが何か神様を非難しているように読めてしまったからです。しかし、このメールはS・Uさんの心からの真摯な疑問であって、その意図するところは決して神様を非難したりなじったりするためのものではないのだと私は確信しました。ご本人に直接聞いたわけではありませんから、私の理解が正しいのかどうかは分かりませんが、私はクリスチャンであるS・Uさんの心の疑問や叫びは、旧約聖書の詩編の中で神様に包み隠さず自分の苦境を訴えている信仰者の姿にも似ているのではないかと思いました。
そう思ったときに、旧約聖書の中のヨブ記に登場するヨブの友人たちのことを思い浮かべました。彼らは、神の正しさを弁護するために躍起になっていました。もちろん、彼らも一人の信仰者として問題に向き合おうとする点では、真摯で敬虔な人たちであったことは疑いえません。しかし、人生の不可思議を思い巡らせる時に、神の領域に軽々しく踏み込んで、不遜にもヨブをなじってしまった点で、神からその高慢さを指摘されても仕方のない人々でした。私自身も危うくあのヨブの友人の一人のようになって、S・Uさんの信仰の在り方を軽々しく非難したりしてしまうところでした。
その次に、もう少し冷静になって、S・Uさんの立場でものごとを考えてみようと思いました。しかし、これもまた不遜なことのように思えて来ました。一人の人間としてできうる限り他者のことを思い、気持ちを共有することは大切なことであることは言うまでもありません。他者に関心を持つということは、聖書が命じている隣人愛の実践には欠かせないことです。しかし、その一方で、どんなにその人のことに関心を寄せ、その人と気持ちを共有する努力をしてみても、その一と同じになることはできません。それなのに、あたかもその人の気持ちをわかったかのように何か発言してしまうことは、自分が神様に成り代わって何かを発言してしまうのと同じくらい不遜なことだということです。
では、私にできることは何か、と考えていくと、結局は神様がこのことをどう考えていらっしゃるかと言うことを神様に代わって答えることでもなければ、また、S・Uさんに成り代わってしまうことでもありません。そんなことは誰にもできないことなのです。結局、私に残されていることは、投げかけられた質問を私自身の境遇と信仰の中でしか答えることができないということです。
前置きが随分と長くなってしまいましたが、この前置きを言っておかないと、きっと私がこれから言おうとしていることを、理解してもらえないのではないかと思ったからです。
さて、ご質問を突き詰めて考えると、こういうことになるのではないかと思います。まず、一つにはこの世の中が幸福と言う点では不公平ではないかということです。もちろん、それが個人の努力によっていくらでも解決できる問題であれば、幸福であることも不幸であることも、個人の責任と言うことになるでしょう。しかし、個人の努力ではどうすることもできない現実があるということ、このことを事実として認めるか認めないかと問われれば、私は、個人の努力次第で誰でも幸福を味わうことができるとは思っていません。
では、その不公平の原因がどこにあるのかと問われたならば、その究極的な原因は人類全体の抱えている罪の問題にあると私は考えています。それは、社会体制や政治体制によってある程度は解決できるかもしれません。しかし、究極的には人間一人一人が罪から解放されない限り解決できない問題だと考えています。
この罪の問題を棚に上げて、この不公平の責任が神に在るのだとすることは、私自身の信仰的なものの考えからは出てきません。むしろ、この罪深い人間の世界の中で働いてくださっている神様の働きが少しでもよく見えるように、罪に曇った目を凝らして見ようと努力しています。
それからS・Uさんのご質問を突き詰めて考えると、もう一つの問いがあるように思います。それは、果たして今の自分が幸せであると感じるかどうか、ということです。それは、言い換えれば幸せとは何かという問いでもあると思います。幸せとは客観的なものばかりとは限りません。主観的に満足を感じるということも大切です。私よりもはるかに収入が豊かでも、満足を感じない人もいます。わたしより少ない収入でも、それでも幸せに暮らしている人もいるでしょう。結婚して幸せな暮らしをする人もいれば、結婚して今まで以上に不幸せに感じる暮らしをする人もいます。いったいどこで自分の幸せを感じるのか、それは結局自分自身の気持ちと価値観が大きく左右していることではないでしょうか。
誰かの尺度で私の幸せを測って欲しいとは思いませんし、私の尺度で誰かの幸せを測ろうとも思いません。結局のところ、私は私に与えられた恵みの中でしか、自分の幸福を計ることしかできないのです。
最後に、詩編の73編に簡単に触れておしまいにしたいと思います。この詩編はまさにS・Uさんと同じ問題に直面した信仰者の歌です。私が何を言うまでもなく、きっとS・Uさんご自身がこの詩編の深みを誰よりも味わうことができるのではないでしょうか。是非一度詩編73編を読んでみてください。
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