タイトル: 「肉体の死は?」 埼玉県 M・Mさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は埼玉県にお住まいのM・Mさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「先日、ある方が『人間の死も動物の死も自然なものであって、肉体の死は罪の結果とは必ずしもいえない』というようなことをおっしゃっているのを聞きました。この世の人がそういうのならば分かるのですが、その方はクリスチャンとしてそう発言していました。
確かにそう言われてみればそうかなと心が揺らぐ気持ちも否定できません。その方によれば、いわゆる聖書が言っている霊的な死や永遠の死については、確かに罪の結果であることは明らかであるけれども、『肉体の死』というのは創造された自然の状態でもありえたというのです。つまり、動物が罪とは関係なく自然に死んでいくように、人間の肉体の死も最初から寿命によって自然に失われていくものだというのです。
山下先生はこの点に関して、どう思われますか。よろしくお願いします。」
M・Mさん、メールありがとうございました。丁度二ヶ月ほど前に、別な方から寄せられたご質問で、聖書が教える「死」の問題を連続して三回にわたって取り上げました。そのとき、いわゆる「肉体の死」の問題についてはあまり詳しくは取り上げることができなかったと思います。せっかくの機会ですから、今回はこのことについて少し詳しく考えてみたいと思います。
まず、結論を先に述べてしまいますが、私の聖書の読み方では、聖書は人間の肉体の死を、動物の死と同じように自然のこととしては描いていないように思います。まして、人間は罪を犯さなくても、動物と同じように肉体的には死すべきものとして造られた、と聖書は積極的に描いていないように思います。これが私の結論です。
しかし、この世の人は別として、クリスチャンの中にも私の読み方とは違った仕方で聖書を読んでいる人がいることも確かです。
まず、死というのは命と深い関係があります。命の問題を取り上げないで、死については語れません。そこで、命と死についての聖書の記述を取り上げてみると、動物も人間も同じように扱われている個所がいくつかあることは否定できません。たとえば、創世記に記されたノアの洪水の記事では、人間を含めた生き物すべてが「その鼻に命の息と霊のあるもの」「肉なるもの」と表現されています。特に七章の二一節以下では「地上で動いていた肉なるものはすべて、鳥も家畜も獣も地に群がり這うものも人も、ことごとく息絶えた。乾いた地のすべてのもののうち、その鼻に命の息と霊のあるものはことごとく死んだ。」と表現されています。もちろん、ノアの箱舟の話では、これらの生き物の死は、神の審判として描かれるのですが、ただ、これらの生き物がもっている命の表現に関して言えば、人間と動物との間に区別はありません。「鼻に命の息と霊のあるもの」なのです。
さらに、ヨブ記34章14節と15節では聖書はこういっています。
「もし神が御自分にのみ、御心を留め その霊と息吹を御自分に集められるなら、生きとし生けるものは直ちに息絶え 人間も塵に返るだろう。」
ここでは、命の本質である「霊と息吹」を取り去ることが死であると描かれています。動物も人間もその点では変わることがありません。
確かに、この個所から動物の死も人間の死も結局は同じであると結論できそうに見えます。しかし、この個所は、人間の死が、つまり、人間から「霊と息吹」を取り去ることが、罪の結果として起っているのかどうかについては、何も述べてはいません。つまり、神が人間から「霊と息吹」を取り去ってしまうということが、自然の摂理として行なわれるのか、罪の結果として決して自然なことではないこととして行なわれるのか、その点はこの聖書の個所からは何もいえないのです。
さらにもう一つ、コヘレトの言葉3章19節では「人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。 同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しい」といわれています。この個所も動物の死と人間の死を同列においている個所ですが、先ほどのヨブ記の場合と同じように、ここから人間の死が罪の結果ではないという結論も出てきませんし、人間は他の動物と同じように本来自然死を迎えるように造られているという結論を引き出してくることもできません。
では、人間の体がもともと朽ちる体をもって造られているとする聖書の個所がないかというと、そういうわけではありません。おそらく人間も動物も本来自然に死ぬべきものとして造られたと考える人たちが最も訴える聖書の個所は、第一コリントの15章42節以下の言葉ではないかと思います。そこにはこの地上でいただく体が「朽ちるべきもの」と言われ、「自然の命の体」と言い換えられています。つまり、自然の命の体はもともと朽ちるべきものだというのです。しかも、それは「最初の人アダムは命ある生き物となった」そのときの体のことをさしています。ですから人間はもともと朽ちる体をもって造られたのですから、人が死ぬのは罪とは関係ないという主張が、ここから引き出されてくるわけです。
しかし、それに対しても異論があります。確かにアダムの身体は創造された時点で朽ちるべき物であったことはコリントの信徒への手紙15章で述べられているとおりです。しかし、アダムが堕落しなかったとしても、人間は依然として朽ちる体のままであったのか、言い換えれば、この死すべき体は罪の結果と関係がないのかと言えば、そうではないでしょう。朽ちるべき体から朽ちない体へと変えられなかったこと自体が、罪の結果なのです。ですから、肉体の死というのは、決して自然なことではないのです。
もし、肉体の死が自然なことであり、罪の支払う報酬ではないとすれば、なにゆえにキリストはご自分の肉体の死をもって人間をあがなう必要があったのでしょうか。また、黙示録14章13節では『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と言われていますが、そもそも死が自然なことであるとすれば、主に結ばれた死もそうでない死も区別はないはずです。
従って造られた時のアダムの体が朽ちるべきものであったという議論から、今現在の人間の死が、罪の結果と無関係に起りうるものであると結論付けることは、聖書自身が語っていることを超えた結論ではないでしょうか。
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