タイトル: 「『自分を愛するように』とは」 A・Kさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はA・Kさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「はじめまして。いきなりこんな質問で失礼かもしれませんが、聖書には『自分を愛するように隣人を愛せよ』というような言葉があると聞きました。聖書が教えている隣人愛というのは、自分を愛する愛が基準なのでしょうか。なんだか随分程度が低いような気がします。自分が自分を愛する愛というのは、結局のところ自己中心の自己愛に過ぎないと思うのです。そんな愛で人を愛したからといって、一体何になるのでしょう。
それに、醜い自分が愛せない人もいると思います。そういう人は他人も愛せないことになるのでしょうか。
むしろ自分の醜さを知っている分だけ、他者に対してやさしくなれるのではないでしょうか。」
A・Kさん、はじめまして。メールありがとうございました。隣人愛について考えることは、とても素晴らしいことだと思います。いつも隣人愛について思い巡らせていれば、きっと自然な気持ちから人を愛することができるようになるのではないかと思います。
ところで、A・Kさんはどこで聖書の言葉をお聞きになったのでしょうか。この隣人愛についての言葉はイエス・キリストが最も大切な戒めについてお話になった言葉の中に出てきます。正確には旧約聖書の言葉を引用してお話になったイエス・キリストのお言葉です。
実は旧約聖書のレビ記という書物の中にこうしるされています。
「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」レビ記の19章18節です。
この中に記されている「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と言う部分を引用して、イエス・キリストはもっとも大切な戒めの一つとされたのです。余談になりますが、その前にイエス・キリストはもう一箇所、旧約聖書を引用して、もっとも大切な戒めの一番に、神への愛を挙げられたのです。
それらのイエスの言葉が記されているのは新約聖書のマルコ福音書12章28節以下です。A・Kさんもぜひご自分の目でお読みになって見てください。
さて、前置きはそれくらいにして、A・Kさんのご質問をさっそく取り上げてみましょう。
確かにおっしゃる通り、「自分を愛するように」という基準は、所詮、自己愛に過ぎないかもしれません。誰でも自分が一番可愛いというのは一面の真理です。その可愛い自分を一番大切にしてしまうところに、人間の罪深さがあるといっても良いかもしれません。もっと自分以外の人のことを思い、回りに生きる人のことを真剣に心に留めるならば、世の中はもっとよくなっているはずです。
聖書がここで教えていることは、自分が自分を愛する愛を基準にすることに重点があるわけではありません。重要なポイントは「隣人を愛する」という点にあるのです。その人が本当に心から隣人を愛するのであれば、それは「自分を愛するように」という基準でなければならないという問題ではありません。何かほかのものを模範として隣人愛を実践しても構わないのです。
しかし、誰か他の人の愛を模範とするというのでは、あまりにも漠然としていて掴み所がありません。そこで、誰でもが一番良く知っている自分が自分を愛する愛を、ここでは引き合いに出して、そのように隣人を愛することが命じられているのです。
もし、そういう自己愛に根ざした隣人愛が程度が低いと思うのでしたら、いくらでも高尚な隣人愛に生きてもよいのです。聖書はそのことを禁じたりはしていないのです。
それから、聖書がここで「自己愛」を引き合いに出したのは、ただ隣人を愛する模範や基準を示したかったからではありません。
自己愛と隣人愛はしばしば対立するものです。自分が可愛いと思えば思うほど、隣人愛はなおざりにされてしまうものです。まず、自分を大事にし、それから余裕があれば隣人にも目を向けるといった具合です。ですから、聖書はあえて「自分を愛するように」と言った後で、その自分に向けられた愛を隣人にも向けるようにと勧めているのです。自分に向けられた愛が他人に向かわなければ、他に隣人に向ける愛などないといってもよいのです。それくらい、人間の愛は乏しいものなのです。
それから、もう一つの質問ですが、それも確かに真理だと思います。自分を好きになれない人、自分さえ心から愛せない人にとっては「自分を愛するように」という前提さえ崩れ去ってしまいます。
もし、人が隣人愛に生きることを難しくしている原因を二つ挙げるとすれば、一つは自分を愛することに熱中しすぎていることを挙げることができるでしょう。そして、「自分を愛するように隣人を愛せよ」とは、まさにそういう人間の弱さを突いているのです。
もう一つ、隣人愛を妨げている理由は、自分を自分で愛することができないということです。自分で自分を愛せない人は、自分を愛するように隣人など愛することはできません。
しかし、自分で自分を愛することができないというのは、ある意味では、自己愛の変形です。大切な自分自身に思い描いた「理想の自分」が高すぎて、現実の自分を受け入れたり愛したりすることができないのです。自分が嫌いだというのは、裏を返せば、理想の自分はもっと素晴らしいという気持ちの表れなのです。その理想の自分のことを現実の自分よりも好きになっているだけのことです。
実はイエス・キリストは隣人愛についてこういう言葉もおっしゃいました。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)
キリストは理想像のわたしを愛してくださったのではありません。現実のわたしを愛してくださいました。キリストが赦し、受け入れ、愛してくださったのですから、そのように現実の自分を愛し、互いに愛し合うことが新しい戒めとして勧められているのです。
「自分を愛するように」という部分を、キリストの言葉で補うとすればこうです。「キリストが愛してくださったありのままの自分を愛し、そのようにありのままの他人を愛しなさい」
キリストの愛に触れるとき、もっとも大きな隣人愛に触れることができるのです。