BOX190 2005年7月27日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「善悪を知る木とエデンの園について」 新潟県 Y・Tさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は新潟県にお住まいのY・Tさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「神様はなぜ食べてはいけない善悪を知る木と生命の木なんかを作ったのですか。食べたのが善と悪を知る木なのは、永遠の生命よりも魅力的だったのでしょうか?

 エデンの園はこの地球上にあったんですよね。今もどこかにあるなんて思っている人、いるんでしょうか。」

 Y・Tさん、いつも番組を聴いてくださりありがとうございます。聖書の一番最初の書物『創世記』の最初の3章は、天地万物の由来の話、人間がどのようにして造られたかと言う話、それから人間がどのようにして堕落し、エデンの園を追われるようになったかなどが記されています。大変興味深いお話なのですが、色々な意味で難しく、疑問の多い個所ではないかと思います。この番組でも天地創造のことに関しては何度か取り上げたことがあると思います。

 さて、きょうはY・Tさんのご質問にそって創世記2章と3章に出てくる「善悪を知る木」についての疑問と、エデンの園についての疑問を取り上げたいと思います。

 まずはじめに、「なぜ神はわざわざ食べてはいけないような善悪を知る木を園の中央に生えさせたのでしょうか」…という疑問を取り上げたいと思います。この木は食べてはいけないと言うばかりではなく、食べると必ず死ぬという恐ろしい木です。人間の親なら、子どもから危険なものを遠ざけるというのが常識です。よりによって目立つ場所に、しかも命に危険のあるものを生えさせておくとは、一体どういうことなのか、だれでもそう考えるに違いありません。

 少し話が横道にそれますが、創世記の2章には同時に「命の木」についても出てきます。「命の木」については「取って食べてはいけない」という命令が最初からあったわけではありません。創世記3章には、善悪を知る木の実を食べて堕落してしまった人間が、命の木にも手を出して食べることを懸念して、神は命の木への封鎖されたことが記されています。しかし、善悪を知る木の実のように、最初から食べることが禁じられていたのではありません。その点は誤解されがちですので、余談ですが指摘しておきます。

 さて、何故、神が善悪を知る木の実を生えさせ、取って食べてはならないなどと、わざわざお命じになったのでしょうか。

 一言で簡単に説明してしまえば、「神は人間をテストされた」と言ったらよいかと思います。人間が神との約束を守るかどうか、試験をされたのです。これはちょっと意地悪な神様のように思われるかもしれませんが、そうなのではありません。先ず第一に、神は人間をお造りになるとき、極めて良くお造りになったからです。神との約束を守る力も当然備えた者として人をお造りになったのです。最初から約束を守る能力のない人に試験を課したのであれば、これは意地悪なことかもしれません。そうではなく、試験にパスできる力があったのですから、決して意地悪な神様なのではありません。

 第二に試験にパスできる能力と同時に自由な意志も与えられたと言うことです。つまり、神は人間をコンピューターで動くロボットのようにはお造りにならなかったと言うことです。コンピューターのプログラムで動くロボットを試験して、思った通り動かなかったら、それは設計者のミスです。しかし、人間はロボットではないのです。自由な意志をもった者として造られ、責任あるものとして神の御前に立っているのです。つまり、動物やロボットとしてではなく、神はまさに人間を人間として扱ってくださったのです。

 第三に、このテストにはご褒美がありました。このテストに合格すれば、真の命の源である神様の恵みの中でいつまでも生きることができたのです。こんなに素晴らしいご褒美はありません、

 以上のことを考えると、このテストは意地悪なテストどころか、ありがたいテストだったのです。聞き分けのない赤ちゃんが間違って食べてはいけないものを口にするかどうか、そんなことを神様はためしているのではないのです。

 さて、二番目のご質問ですが、「エデンの園はこの地上にあったのか」ということですが、創世記を文字通りに読めばその通りです。アダムとエバが最初に置かれた暮らし場所、それがエデンの園です。ただし、創世記の3章では神はアダムたちをエデンの園から追放しました。そして、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれたのですから、そこに至る道は完全に人間からは封鎖されてしまったのです。そういう意味では、もはや人間が自分で近づくことのできない場所ですから、この地上にはエデンの園を見出すことができないと言うのも事実です。

 また、創世記2章に出てくる「エデンの園」は、神様との交わりの中に生きる場所と言う意味では、まさに「楽園」と呼ばれるにふさわしい場所でした。エデンの園が特定の場所なのではなく、神との豊かな交わりが実現している場所と言う意味にとれば、それば完全に失われてしまったものなのではありません。

 十字架にお掛になったイエス・キリストはルカによる福音書で一緒に十字架にかけられた一人の囚人にこうおっしゃいました。

 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

 イエス・キリストは真の救い主として、わたしたちを神と和解させ、わたしたちを神の豊かな恵みの交わりの中に回復してくださいました。そういう意味では、イエス・キリストと結ばれている者は、この地上にあったとしてもエデンの園のように、神との交わりを楽しむ楽園を味わうことができるのです。エデンの園がこの地球のどこにあるのか、その地理的な場所を探求することは面白いことかもしれません。しかし、神との豊かな交わりが失われたところには、どこにもエデンの園は存在し得ないのです。

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