タイトル: 「キリストの最大の誤りは隣人愛?」 Ahahaさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームAhahaさんからのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。
山下先生。イエス・キリストの「教え」には多くの「誤り」がありますが、その中でも「極めつけ」はキリストが「隣人愛」の「実践」を説いたことです。
わたしはどんな人でも「本当の愛」などを持っていないと思います。それなのに「自分のことは自分でやる」というとても当たり前の「社会常識」に反して「隣人を愛せ」などとキリストは説いたのでしょうか?
もし多くの人々がそのようなことをするようになれば「隣人」に「依存」したり「甘えたり」する「弱い人間」が増えるだけだとわたしは思います。
「仏教」で説かれるように、この世は元々「苦しみの世界」なのです。そのとても辛い苦しみを耐え忍んで「厳しい修行」をしたり「絶え間ない努力」を死ぬまで積み重ねることが本来の人間のあるべき姿なのです。
人間は誰でも決して「他人」などに「頼らず」に「自分の力」と「自分の能力」だけに頼って自分を「神」として自分の「精神力」をいつも鍛えながら、宗教などを「完全無視」して生きるべきだと思います。
Ahahaさん、メールありがとうございました。Ahahaさんからは今までもたくさんのメールをいただきましたが、結局Ahahaさんはご自分が何を信じてどう生きたいのか、ご自分でも十分納得の行く結論が出ていらっしゃらないのではないかと感じています。いつもちぐはぐなメールをいただいて、こちらもAhahaさんがほんとうは何を考えていらっしゃるのか理解するのに頭を悩ませています。しかし、考えてもみれば、人間とはそういうものなのかもしれません。あっちに心が揺らいだり、ああ言ったかと思えば、次にはこう言ってみたり、これだと思う信念を持ちながら、実際の行動はそれとはちぐはぐだったり…。しかし、普通はそうした自分のちぐはぐさに気がついて、それを何とか覆い隠そうと体裁だけは整えるのも人間です。Ahahaさんの場合はそれをあまり気になさらずに、ご自分をオープンにできる性格なのだと思いました。
さて、今回のメールをいただいて、今もってメールの意図がどこにあるのか分かりかねている状態です。一つにはメールの結びの部分が文字化けしていて、結論として何を質問なさりたいのかはっきりしていないと言うこともあります。この番組はQ&Aの番組ですから、何か答えを期待してメールを下さったのだろうと思っています。確かにメールの前半には「なぜ「隣人を愛せ」などとキリストは説いたのでしょうか?」という疑問が述べられています。けれども、それは表面上の疑問で、メール全体はキリストの説いた隣人愛を否定し、「厳しい修行」と「絶え間ない努力」こそが、人間の生き方にふさわしいとするご自分の説を述べることに終始しているように思われます。
Ahahaさんがもし、ご自分の人生観の通り「他人などに頼らずに自分の力と自分の能力だけを頼って生きること」を最高の生き方と本当に思っていらっしゃるのなら、そもそも人に意見を求めてメールを出すなどというのは、人を頼ることですから、自分の考えと実際の生き方とがちぐはぐだと言われても仕方ありません。
そうではなく、もし、このメールが質問ではなく、ご自分の意見を表明しているだけだとすれば、それは宛先を間違えた意味のないメールです。この番組のメールボックスは一方的な意見の表明のために開かれているわけではないからです。ご自分の信念を表明されたいのであれば、もっとそれにふさわしい場所があるのではないでしょうか。もし、この番組しか頼るところがないのだとしたら、それこそ、何ものにも頼らないAhahaさんの信念と現実は全然違うことを暴露してしまっていることになるのではないでしょうか。
Ahahaさんには大変申し訳ないのですが、わたしはAhahaさんの信念にも現実にも深い共感を覚えるものがありません。
そもそも、Ahahaさんの論理にはかなりの飛躍や思い込みがあるように思います。
キリストが隣人愛の実践を説いた誤りの理由として、Ahahaさんが一番最初に掲げているのは、「どんな人でも『本当の愛』などを持っていない」という理由です。
「本当の愛」が何であるのか、それ自体を定義しないで、「本当の愛」などないと簡単に言い放ってしまうのは、少しも説得力がありません。確かに「神が人を愛する愛」と同じ愛を人間が持っていないというのであれば、それはそのとおりかもしれません。しかし、そうだからといって、そのことが隣人愛の実践を説いたことの誤りの理由にはならないでしょう。完璧な愛ではないとしても、それが隣人愛の実践を否定する理由にはならないでしょう。
もし、完全な愛が人間にはないことが理由で、隣人愛の実践を説くキリストが誤りであると言うのであれば、完全な人間など誰もいないのですから、「『厳しい修行』と『絶え間ない努力』こそが、人間の生き方にふさわしい」とするAhahaさんの考えはもっと間違っていることになりはしませんか。不完全な人間がいったいどうやって「厳しい修行」と「絶え間ない努力」に耐え抜いて、誰をも頼らず神のように生きていけるのでしょうか。
Ahahaさんはキリストが隣人愛の実践を説いたことが誤りである理由として、もうひとつ、こんなことを挙げています。それは、もし多くの人々がそのようなことをするようになれば隣人に依存したり甘えたりする弱い人間が増えるだけだ、ということです。
しかし、これも論理を一方的に摩り替えているだけのようにしか思えません。そもそも、隣人に依存したり甘えたりする弱い人間を増やすだけの隣人愛の実践を、ほんとうの隣人愛の実践と呼べるのでしょうか。隣人愛の手の差し伸べ方はいろいろあるはずです。手に職を持って働くことができるように、教育と訓練を与えることも隣人愛です。また、その教育と訓練の機会を誰にでも与えるために、一時的に経済的な援助を与えることも隣人愛でしょう。そうしたことが隣人に依存したり甘えたりする弱い人間を増やすだけのむなしい行いとは思えません。
さらに、この世の中には誰かによって支えてもらわなければ、生きていくことができない弱い立場の人がいることも確かです。そういう弱い立場の人たちに差し伸べられる援助の手を、すべて甘やかしであると決め付けてしまうのもどうなのでしょうか。
むしろ、人間とは大なり小なり互いに依存しているものです。持っている力に応じて互いに支えあうことこそ本当の隣人愛の実践なのではないでしょうか。
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