皆さんお元気にお過ごしですか。東洋宣教教会の小堀昇です。今日もご一緒に神様を見上げて歩んでまいりましょう。
さて、聖書にヨセフという人が出てきます。彼は父ヤコブの年寄り子で、父ヤコブから特別な愛を受けて育ちました。ところが、彼の兄達は、ヨセフ一人が父ヤコブから特別な愛を受けているのが面白くなく、彼を憎み、兄達はとうとうヨセフをエジプトに売り飛ばしてしまうのです。
ヨセフは見ず知らずの地、エジプトに行く羽目になってしまうのですが、何とそこで、エジプト王ファラオの宮廷の役人侍従長のポティファルの家に拾われるのです。しかし、その事もつかの間、ポティファルの奥さんから誘惑に遭い、あらぬ嫌疑をかけられて、牢獄に入れられてしまうのです。しかし、彼は牢獄の中で、エジプト王ファラオの夢を解き明かすチャンスが与えられて、彼は牢獄を出ることが出来て、最後はエジプトの宰相まで上り詰め、飢饉のために、エジプトに助けを求めに来た、ヨセフの兄弟達を最後は助ける事ができたのでした。
彼の人生は正に波乱万丈、ジェットコースターのように上がったり下がったりの人生であります。
しかし、聖書は、「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」(創世記39:2)。と、言っています。
私達は、物事が上手く行かなくなると、直ぐに回りのせいにします。上司が悪い、部下が悪い、先生が悪い、生徒が悪い、主人が悪い、妻が悪い、しかし、そこがどんなに、最悪の状況に見えたとしても、主が共にいて下されば、荒れ野も恵みの地となるのです。しかし、どんなに状況が整っていたとしても、主が共にいて下さらなければ、それは空しい人生であります。
共にいて下さる主を信頼して歩んで参りましょう。それではまた御機嫌よう。