いかがお過ごしでしょうか。東京教会の今井献です。
「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒野に出ていかれた。」(マタイ4:1)
悪魔に引き出されたというのではありません。「霊に導かれて荒野に行かれた」とあるとおり、誘惑を受けるよう聖霊によって引き出されました。
なぜ誘惑に会わねばならなかったのでしょうか。理由は、イエス様が父なる神に愛された者であったからです。この出来事の直前、マタイ福音書3:17で、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」という天からの声がイエス様に与えられています。
御父に愛されていたからだという理由は、少し奇妙に感じられるかもしれません。しかし、創世記のはじめに記されている、人類の先祖であるアダムとエバのことを考えてみてください。神は、御自分の姿に似せて人を創造してエデンの園に置き、人に限りない恵みを施されました。その最大の恵みとは、園のすべての木の実をとって食べてよいが、善悪の知識の木からだけは取って食べてはならないという戒めでした。
イエス様は、ただのナザレのイエスではなく、神の前を生きる全人類の代表でした。それゆえ、人類の先祖アダムにおいて失敗した誘惑と試練を人類の代表として再びお受けになった、それが荒野の誘惑です。イエス様の荒野の試練とは、愛する御子イエスに神の民をあずけることができるかどうかを神が試された出来事です。神は愛する者に試練を与え、愛する子イエスによってわたしたち罪人の救いを実現されました。