聖書を開こう 2004年12月30日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 信実な神によって(1テサロニケ5:23-28)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 人間としてどのように自分を形成していくのか、これはどんな人にとっても大切な課題です。「なるようになるさ」というのでは、人間は育ちません。もちろん「なるようになるさ」といっても、ビジョンがまったくないのではないでしょう。ビジョンに向かって焦らなくても、なるようになるという意味なら話は別です。  テサロニケの信徒へ宛てた手紙を書いたパウロは、この教会の成長に対して、どのようなビジョンを持っていたのでしょうか。きょうの個所からともに学びたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙一 5章23節から28節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。
 兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。
 すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。
 わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。

 きょうでテサロニケの信徒への手紙一の学びは最後になります。結びの祈りと結びの言葉から学びたいと思います。  パウロはこの手紙を結ぶに当たって、テサロニケの教会のためにお祈りの言葉を捧げています。それは「平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように」と言うものでありました。パウロの願いは、テサロニケの教会の一人一人が神の御前にまったく聖なる者となることです。この手紙の5章にはテサロニケ教会の人々が守るべきいろいろな教えが記されていました。その教えの目指すところは、一言で言えば、彼らがまったく聖なる者となることです。聖なる者となって欲しいために、今まで様々なことを教えてきたわけです。

 しかし、パウロの祈りの言葉は「あなたがた」が祈りの主語なのではありません。パウロは「あなたがたがまったく聖なる者となりますように」とは祈っていないのです。そうではなく「平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように」と祈っているのです。

 もちろん、パウロは今までテサロニケの教会の人々に教えてきたことがらに教会員たちが心を留め、そのことを守るように期待していたことは言うまでもありません。しかし、同時に、そのような完成へと至るには、神の助けが必要であることをパウロは誰よりも知っていたのです。そうであればこそ、この手紙を結ぶに当たって、パウロは神の助けを求め、真摯に祈ったのです。

 ところで、パウロがいう「全く聖なる者」という表現は、次の節で「あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り」と言い換えられます。パウロが聖なる人間と言うものを考える時、それはただ単に心や魂の問題としてだけ見ていたのではないことがここにうかがわれます。パウロにとって、「全く聖なる者」というのは、ただ単に魂だけが清められればいい、心だけが清められればいい、という問題ではなかったのです。「霊も魂も体も」、一人のトータルな人間としてその全体が全く聖なる者となることを期待していたのです。この霊も魂も体も含めた一人の人間がトータルに成長すること、それをわたしたちも心に留めなければなりません。現代はとかく細分化され専門化された社会です。ややもすれば人間自身も細分化されて、人間の一部分だけに関心が及びがちです。ある面に心が向かえば、他の面には関心も薄れてしまいます。人間は体だけでもない、魂だけでもない、霊だけでもない、すべてが必要なトータルな存在なのです。そのことを大切にするのでなければ、真の成長もないのです。もちろん、パウロはの人間の構成要素が体と霊と魂の三つであるということを言いたいのではありません。そうではなく、人間という存在の諸要素が何分割されようとも、一人の人間として、すべての点でまったき存在として成長する事を願っているのです。

 しかもパウロはそのことをキリストの来臨という枠組みの中で考えていました。

 「わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」

 パウロは様々な書簡の中で、教会員たちがキリスト・イエスの日に責められるところのない、純真で非のうちどころのない者となるようにと祈っています。誰もが迎えるキリストの再臨の日に、神の御前に立つことができるかどうかそれがパウロの関心なのです。

 さて、パウロはそのことを平和の神が実現してくださるようにと祈りました。そう祈るパウロには確固とした確信がありました。ただ漠然と神がそうしてくださるに違いないと思っていたのではありません。パウロがそのように神に祈ったのは、テサロニケの教会の人々をお招きになった神が、真実な方で、必ずそのとおりにしてくださると確信していたからです。

 神がわたしたちを招かれたと言うこと、そして、その招いてくださった神が信実なお方であるということ、そのことがパウロをいっそう確信をもった祈りへと導いていったのです。

 わたしたちが神に対する誠実さはたかが知れています。わたしたちの上にだけ希望がかかっているのだとすれば、その希望はとても危ういものです。しかし、パウロの抱いている希望は、そんな薄っぺらな人間の上に乗っかっているものではありません。わたしたちを招いてくださった誠実で信実な神の上にこそ、確かな希望があるのです。その神によって、全く聖なるトータルな人間としてイエス・キリストの再臨の日に神の御前に立たせていただきましょう。

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