聖書を開こう 2004年12月16日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 喜び・祈り・感謝(1テサロニケ5:16-18)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 もう何年も前のことになりますが、友人の結婚式のお引き出物に、一枚の木の板の壁飾りをいただきました。その木の板には「いつも喜べ、絶えず祈れ、どんなことにも感謝せよ」と書いてあります。有名な聖書の言葉です。きょうはこの聖書の言葉をご一緒に学びたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙一 5章16節から18節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

 テサロニケの信徒への手紙一の学びもおしまいに近づいて来ましたが、結びの部分にはたくさんの勧めの言葉が記されています。既に二回にわたって一連の勧めの言葉を学んで来ましたが、いずれも教会という共同体の中での振る舞いについて記されたものでした。今日取り上げる三つの節に記された勧めの言葉は、読み方によっては個人の信仰生活に関わる内容の勧めです。しかし、前後の一連の勧めの言葉との関連を考えると、これらの勧めの言葉は、ただ単に個人的な信仰生活の中で守るべき事柄として記されているのではなく、やはり、教会という共同体の中でのあり方に関わる勧めの言葉と受け取る方がよいでしょう。  さて、この三つの節に記された言葉は、「喜べ、祈れ、感謝せよ」という三つの勧めの言葉から成り立っています。一見、バラバラの三つの命令ですが、それぞれ相互に関連性をもった言葉と取ることができると思います。  それから、18節には「絶えず祈りなさい」と言う言葉に続いて「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」という言葉が記されています。「これ」というのは文字通りに受け取れば「祈ること」だけを指しているのかもしれません。しかし、ここでは「これ」というのは文字通りに直前の「絶えず祈りなさい」だけに掛かってるのではなく、その前の「いつも喜んでいなさい」にも「絶えず祈りなさい」にも掛かっていると理解できます。つまり、「喜ぶこと」、「祈ること」、「感謝すること」…この三つは三つ巴のように互いに関連しあいながら、神がキリストにおいてわたしたちに望んでおられることがらなのです。

 一番最初にとり挙げられているのは「いつも喜んでいなさい」という勧めです。わたしたちが普通考える「喜び」というのは、何かが起った時の喜びです。例えば試験に合格したとか、結婚したとか、赤ちゃんが生まれたとか、無事だったとか…こういう事があると、だれでもうれしい気持ちになって喜びたくなるものです。しかし、人が生きていく時には、いつも嬉しいことばかりとは限りません。悲しい出来事もたくさん起ります。失敗したり、別れなければならなかったり、事故に遭ったり、喜びとは正反対なこともいくらでもあります。そのような時にいつもニコニコ喜んでいなさいというのが、聖書の教えなのでしょうか。そうではありません。

 少なくとも、このテサロニケの手紙の中で「喜び」と言う言葉が一番最初に出てくるのは、「聖霊による喜び」という表現の中でです(1:6)。何が起った喜びと言うのも確かに喜びには違いありません。しかし、そういう喜びをいつも期待することはできません。パウロが期待している喜びは「聖霊による喜び」です。パウロは別の手紙の中では「喜び」は聖霊の結ぶ実であると言っています(ガラテヤ5:22)。聖霊による喜びは悲しみの中にあっても吹き消されてしまうようなものではありません。むしろ、あらゆる困難や悲しみさえも乗り越えさせる力のあるものです。実際、テサロニケの教会の人たちはひどい苦しみの中で聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れた人たちです。その喜びをいつまでも持ち続けるようにとパウロは勧めます。

 次にパウロが勧めているのは、絶えず祈ることです。祈りというのは、自分の願望を神に実現させるために唱える言葉ではありません。もし、そうであれば、かなえられない祈りがあるたびに、喜びどころか失望で心はいっぱいになってしまいます。

 キリスト教の祈りは、神のみ心を祈ることです。わたしたちの必要を祈る前からご存知である神に対して、何が神のみ心であるかを尋ね求めることです。神様を説得しようとして躍起になったり、イライラしたりすることはありません。むしろ自分の思い通りにならないときに、神の御心がどこにあるのか教えていただく喜びがあります。自分さえ知らない自分の必要を教えていただく嬉しさがあります。

 そうであればこそ、絶えず祈ることはいつも喜ぶことに繋がっているのです。祈りがなければ、喜ぶことも続くはずもありません。

 三番目にパウロが勧めることは「どんなことにも感謝しなさい」ということです。

 聖書の中で「感謝」の反対語は何でしょうか。それは「つぶやく」ということです。その典型的な例は、旧約聖書に登場するエジプトから脱出した旧約の民たちでした。荒野を旅するうちに、脱出してきたエジプトの方がましだったと不平を言います。食べ物がないことをつぶやき始めます。エジプトでの暮らしから解放されたことを感謝する気持ちなどどこかへ行ってしまっています。

 神が民たちの不平に応えて、マナとうずらを食べ物としてあたえると、今度は食べ飽きたとつぶやきます。

 つぶやきのあるところには、神の御業を喜ぶことなどありません。もし、つぶやく代わりに、感謝の気持ちをあらわすことができれば、そこにはおのずと喜びも沸いてくるのです。ですから、いつも喜んでいるために、どんなことにも感謝を見出す事が大切なのです。

 もし、教会の中に喜びがないとつぶやいているのでしたら、つぶやくよりも前に感謝すべきことを見出しましょう。感謝すべきことが見出せないのなら、神がわたしたちの必要にどう答えてくださるのか、祈りつつ待ち望みましょう。

 いつも喜んでいなさい絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

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