ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
世の中にあるいろいろな団体やグループを眺めてみると、集まってくる人たちの顔ぶれは、その団体やグループの目的によって、年齢や男女比、健康度、学歴など一定の偏りが見られます。例えば子育てについての集まりであれば、必然的に20代から30代の子供がいる既婚の女性が圧倒的に多いでしょう。ゲートボールの同好会であれば、健康なお年寄りがほとんどの数を占めるかもしれません。地球環境問題の講演会には、それなりの知識と関心のある知識層の人が多いことでしょう。
ところが、教会と言う集団を見ると、年齢も健康度も学歴もバラバラな人々の集まりです。信じているものは同じでも、一人一人の関心も趣味も違います。教会と言うのはそういう集団なのですから、その集団の中で平和に過ごすと言うのは、ある意味では大変かもしれません。パウロはそうした集団である教会の中での過ごし方について手紙の中で記しています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙一 5章14節と15節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
パウロは手紙を結ぶに当たって、こまごまとした勧めの言葉を記しています。前回扱った個所では、教会の中で働く指導的立場の人々をパウロは取り上げて、テサロニケ教会の信徒たちに、これらの人々を敬愛するようにと勧めました。今回取り上げる個所では、教会内部にいる様々な人たちに対して、どう接するべきかが取り上げられています。
ここでは特に、「怠けている者たち」「気落ちしている者たち」「弱い者たち」という三つの種類の人々が挙げられています。
「怠けている者たち」と言う言葉は、ここにしか出てこない言葉ですが、テサロニケの信徒へ宛てたもう一通の手紙、テサロニケの信徒への手紙二の3章7節に「怠惰な生活をする」という動詞の形で出てきます。この単語のもともとの意味は秩序を乱す行動を意味する言葉です。例えば兵士が隊列を離れてしまうような、そういう秩序を乱す行動を指します。
もっとも、テサロニケの信徒への手紙二の3章7節の文脈では「働こうとしないこと」「落ち着いた仕事をもたないこと」の意味で使われていますから、「無秩序な生活をする」と言うよりは「怠惰な生活をする」という意味で使われているのでしょう。きょう取り上げた個所では、何の文脈もありませんから、「無秩序な者たち」という意味なのか、「怠惰な者たち」なのかははっきりしません。ただし、4章11節以下のところで「怠惰な生活」が戒められていますから、ここでも、同じ人々が取り上げられているのでしょう。その人たちは世の終わりが近いことを理由にまともに働くことをしない人々なのでしょう。そういう人々を、パウロは戒めるようにと勧めています。
次に出てくる「気落ちしている人たち」という言葉も、新約聖書の中ではここにしか出てこない言葉です。もともとの意味は「小さな心」を意味する言葉です。小さな心でもういっぱいいっぱいになってしまって、勇気や気力を失ってしまう心の状態です。
具体的にどんなことが原因でテサロニケの教会の中に気落ちした人たちがいるのかは、ここには記されていません。ただ4章で取り上げた、キリストの再臨を待たないで死んでいった人々を悲しむ人たちは、そのような気落ちしている人々の中に数えられるでしょう。
どんなことが原因であれ、そういう人々を励ますようにとパウロは勧めます。
「励ます」というのはただ、「頑張れ」と声をかけることではありません。その人が目的を達成することができるようになされる、あらゆる力添えがそこには含まれます。くじけた心にもう一度事柄に当たろうとする勇気を与えることです。
三番目に登場するのは、「弱い者たち」です。この「弱い者たち」というのは、他のパウロの手紙の中では、偶像に供えられた肉を食べることを恐れる信者であったり(1コリント8:7-13)、信仰上の良心から野菜だけしか食べられない人(ローマ14:1)を指したりしています。テサロニケの教会ではそういった具体的な問題があったのかどうかはわかりません。もしあるとすれば、手紙のどこかでそのことが取り上げられたことでしょう。ここで言われている「弱い人」と言われている人たちがどんな人たちであれ、パウロはその人たちは助けを必要としている者たちであると感じています。ですから、その人たちを助け、支えるようにと命じます。
そうした三種類の人たちについて取り上げた後で、パウロは「すべての人に対して忍耐強く接しなさい」と勧めます。ここでいう「すべての人たち」というのは、教会の内部にいる人たちのことを念頭においてのことでしょう。もちろん、何よりも「怠けている者たち」「気落ちしている者たち」「弱い者たち」に対しては特別な忍耐が必要でしょう。しかし、教会員と言うのは、もともとあらゆる違いの中から教会へと集めれてきた人々です。ですから、互いを受け入れる忍耐が必要です。相手に悪意を感じるのではなく、いつも善意をもって接すること、それがなければ教会としての平和を保つことは難しく感じられます。
すべての人に対して忍耐強く接することがどれほど難しいことか、パウロ自身、誰よりもよく知っていたに違いありません。しかし、そのことが教会が平和のうちに一致を保つために何よりも大切なことであることをパウロは誰よりも知っていたのです。
そして、忍耐強く接すると言うのは、ただ、我慢すると言うのとは違います。あきらめると言うのとも違います。パウロは教会員を戒めたり、励ましたり、助けたりすることを投げ出さないで、忍耐強く接することを求めているのです。