ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
教会と言うところは、平和が支配する穏やかで静かなところというイメージがあるのではないかと思います。そして、ほとんどの教会ではそのイメージのとおり平和なムードに包まれています。
ところが、残念なことに、聖なる者たちの集まりである教会にも、ときにはいさかいや争い事が起きると言うのも事実です。もちろん、その中には必要な争いもあります。しかし、人間的な弱さから起るつまらない争いも少なくありません。信徒同志の争いや、中には牧師や教会役員と信徒との間に争い事が起るということも決して稀ではありません。そうであればこそ、こうした事柄が起る前に、パウロの勧めの言葉に耳を謙虚に傾けておく必要があります。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙一 5章12節と13節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
テサロニケの信徒への第一の手紙は、きょうお読みした5章12節以降、いよいよ結びの分部に入ってきます12節からはじまって24節まで、こまごまとした勧めの言葉が並べられています。ここに記された勧めの言葉は、一見すると脈略のないバラバラの勧めを、思いつくままに記したような印象を受けるかもしれません。しかし、少なくとも、きょう取り上げた個所は、教会という共同体の中で指導的な働きをしている人たちに対して、教会員がどういう態度で接するべきかの指針を与えた個所です。それに続く14節以下も、共同体内部での生活に関する勧めの言葉です。そういう意味では、単に個人の信仰生活に関わる勧めではなく、教会と言う共同体の中でどう振る舞い、どう信仰生活を送るべきかという問題を扱った個所と言うことができます。
さて、教会と言う共同体の中での生活について述べる時、パウロは先ず初めに指導的立場の人々のことを取り上げています。今日では、牧師とか教会役員とか長老とか監督などの呼び方でこれらの人々は呼ばれるべきでしょう。しかしパウロはそういう用語をここでは使っていません。それはまだ今日のように教会が組織化されていなかったのかもしれません。あるいは組織化されていても、特定の呼び方でそうした指導者たちが呼ばれていなかったのかも知れません。あるいは、この手紙ではただ単にそうした呼び方を避けていただけなのかもしれません。
いずれにしても、パウロは指導的立場の人々を三つの表現で言い表しています。「あなたがたの間で労苦している人々」「主に結ばれたものとして導いている人々」そして「戒めている人々」です。パウロはここで三つの種類の働きを言っているのではなく、教会の指導的立場の人々を、「労苦し、導き、戒める人々」と表現しているのです。教会の群れを委ねられた人々が、指導し、訓戒する働きを担っていることは、誰にでもよく知られていることです。しかし、パウロは指導と訓戒という群れのリーダーの働きに触れる前に、このリーダーの立場が「あなたがたの間で労苦する人々」であることを一番最初に挙げているのには興味を覚えます。確かに、群れを委ねられた指導的な立場の人々には苦労が絶えません。それだけ、重い責任があると言うことでもあるのです。ただ上から落ちてきた権威の上にのうのうと座っているだけの人々ではないのです。もしそうであるとすれば、本当の指導者の名に値しないでしょう。パウロが教会の指導者のことに言及する時に「あなたがたの間で労苦する人々」と言う言い方で表現していることに感慨深い思いを覚えます。
さて、教会の指導者の働きは、何よりも群れを導くことにあります。パウロはこうした働きの人々を「導く人々」と呼んでいます。この単語のもともとの意味は「先に立つ人」という意味ですから、群れに先立って指導的な役割を果たす人と言うことになるのでしょう。ただ、パウロはこの働きの人々を「主と結ばれた者として」あなたがたを導く人々であると述べています。主からこの働きを与えられ、主に結びついて群れを導くのでなければなりません。主から離れて群れを指導することは、ただの暴君でしかありません。
この指導者がおそらくもっとも労苦を覚えるのは、群れを戒める時であると思います。パウロは群れの間で労苦する人々の働きに「戒める」ことを加えるのを忘れません。戒めたり忠告したりすることは何よりも知恵を必要とします。人を怒らせたり破局に追いやるために戒めるわけではありません。その人が主イエス・キリストと結びついて健全に成長することを願って忠告を与えるのです。その目標が達成されるように語るには、知恵と忍耐が必要です。
そういう苦労の多い群れの指導者たちに対して、これらの人々を重んじるように、また、愛をもって心から尊敬するようにと、パウロは勧めます。
いえ、パウロはこのことを「勧告する」「勧める」「命じる」というよりは「お願いする」という控えめな言い方をしています。本来なら指導的立場にある者が尊敬されると言うのは当然のことかも知れません。しかし、パウロは「お願い」としてテサロニケの教会の人々に指導者たちを愛をもって敬うようにと勧めています。
パウロは教会の指導者たちに対して教会員がどう振る舞うべきかを教えた後で、「互いに平和に過ごしなさい」と言う言葉をもってこの段落をとじています。
テサロニケの教会の内部に、指導者たちに対する不信感や溝があって、あえてこのような勧めの言葉を述べているのではないでしょう。しかし、教会の中で労苦し、群れの指導に当たる人々を心から敬愛することのない教会では、教会の平和が保たれないのも事実です。パウロは「お願い」とは言っていますが、それは教会が平和であるためにも大切なこととして受け止めなければならないことなのです。
「互いに平和に過ごしなさい」という結びの言葉は、一見脈略のない言葉に見えますが、しかし、教会の指導者たちを敬愛することと、互いに平和に過ごすこととは切り離すことが出来ないことであることを、テサロニケの教会の人々は心しておく必要があるのです。それは、また今の教会にとっても同じであると思います。