聖書を開こう 2004年11月25日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 生きるにも死ぬにも主とともに(1テサロニケ5:7-11)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 宗教改革の時代に生み出された信仰問答書の中に『ハイデルベルク信仰問答書』という有名な教理問答書があります。その問答書は「生きるにも死ぬにもあなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いで始まります。
 この問答が問い掛けているのは、生きているときだけの慰めではありません。また、死ぬ時だけの慰めでもありません。生きているときも死ぬときも変わることなく慰めとなるものは何かと問い掛けています。
 きょうお読みする個所でも、パウロは生きていても死んでいても変わることのない神の救いについて語っています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙一 5章7節から11節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。

 きょう学ぶ個所も、4章の13節からずっとパウロが取り上げてきた問題についての個所です。その問題とはテサロニケの教会の中に終末の時を待たずして亡くなってしまう信徒が出始めてきたと言うことです。そのことは現代の教会では取り立てて何の問題にもなりませんが、当時の生まれたばかりの教会にとっては、そのことを信仰的にどう受けとめたらよいのか、大変な問題でした。というのも、テサロニケの教会では、どうやら自分たちの生きている時代に世の終わりが来ると誤解していたような向きがあるからです。そこでパウロはこのことで動揺するテサロニケの教会の信徒たちを慰め励ますために、手紙のかなりの部分をこの問題に割きました。きょうはその最後の部分になります。
 今までの復習になりますが、今までパウロが書いてきたことは、大きく分けて三つのことでした。まず初めにパウロが取り上げたのは、既に眠りについた人々のことについてです。テサロニケの教会の信徒にとって、既に眠りについてしまった人々がどうなるのか、それは一番の関心事でした。ですから、当然一番最初にパウロはそのことについて触れます。
 パウロはそれらの人々も世の終わりの時、主イエスの来臨の時に確実に救いに与るということを、主の言葉に基づいて切々と説きます。テサロニケの教会の信徒が抱いた疑問や動揺の大部分は、その説明だけで十分であったはずです。ですからパウロは、「今述べた言葉によって励まし合いなさい」とテサロニケの教会の人々に勧めます。
 しかし、パウロはテサロニケの信徒から次に寄せられるかもしれない疑問を先取りして、主の来臨の時期の問題に触れます。それが二番めのテーマでした。そもそも既に眠りについた人々についての問題は、世の終わりの時についての誤解から生じた問題でした。ですから、この点もしっかりと伝えておかなければならない事柄だったのです。
 終末の時期についてわたしたちが知っていることは、その日、その時が盗人のように、また産みの苦しみのように不意に襲ってくると言うことだけです。
 しかし、その点を伝えた後で、パウロはすぐさま三つ目のテーマに進みます。と言うのは、終末の時期について詳しいデータを誰も持っていないということが、返って不安を煽りかねないからです。
 そこで、パウロは、信徒一人一人が、盗人が活動する闇の世界に属する者ではなく、光の子、昼の子であることを思い起こさせます。夜の世界に属するものは、眠りこけてたり、酔いつぶれて、不意に襲われると言うことがあるかもしれません。しかし、昼の世界に属する者にとってはそうではないとパウロは不安を取り除きます。
 さて、いよいよパウロはこの問題について最後の締めくくりをしようと筆を進めます。
 パウロは、「既に眠りについた人たちについては」という書き出しで、この問題を取り上げて来ましたが、この問題を締めくくる時には、もっと大きく信仰の目を見開くように、わたしたちの心を導いています。
 テサロニケの教会の人たちの関心は、既に眠りについた人たちの将来の救いについての関心でした。あるいは、それは終末の時を待たずして、やがて眠りにつくかもしれない自分たちの将来についの関心でもありました。
 しかし、パウロがわたしたちを向かわせよ言うとしていることがらは、生や死によって中断されたり、変更されたりすることのない、キリストのうちにある救いの歩みなのです。
 「神は、わたしたちを主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められた」という、この一点に心を向けるようにパウロはわたしたちに注意を促します。この神の救いから目をそらさず、救い主キリストを見つめる時に、生きるときにも死ぬ時にも変わることなく歩む希望を抱きつづけることができるのです。

 「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」

 終末の時を待たずして死ぬことがあったとしても、死がわたしたちをキリストとともに歩むことからわたしたちを引き離してしまうことはできません。

 「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38-39)。

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