聖書を開こう 2004年11月18日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 目を覚まし、身を慎んで(1テサロニケ5:1-6)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 旧約聖書の詩編に、こんな言葉があります。
 「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない」
 詩編121編のことばです。
 人間の見張り役は、どんなに注意をしていても、うっかりうとうととしてしまうことがあります。起きているようでも、注意が散漫になっているときもあります。だからこそ、人間の見張りにまさって、神様の見守りほど確かなものはないと、詩編の作者は歌っています。
 しかし、聖書は、このまどろむことも眠ることもない神様に頼ることの大切さを教えていると同時に、わたしたちが信仰生活を送る上で、絶えず目を覚まし、身を慎んでいることの大切さを教えています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙一 5章1節から6節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

 テサロニケの教会では、世の終わりが来る前に亡くなってしまう教会員たちの問題で、教会が動揺していました。というのも、まだ生まれたばかりのキリスト教会にとっては、世の終わりと救いの完成は自分たちの時代に起るもっと間近なものと受け取られていたからです。もちろん、パウロや他の使徒たちがそう教えていたのかと言うと、そういうわけではありません。使徒たちは世の終わりがいつ起っても不思議ではないほどに緊迫していることは教えましたが、それがいつ起るのか、ということを積極的に教えていたわけではありません。けれども、テサロニケの教会では、自分たちの生きている時代にこそ世の終わりが来るものと受け止めていたのでしょう。そう思い込んでいるテサロニケの教会員たちにとっては、既に眠りについてしまった信仰者のことをどう考えたらよいのか、当惑してしまっていたのです。
 この問題について、パウロが扱うその扱い方は、ただ単に教理的な知識を与えるという、それだけに徹したものではありませんでした。パウロの視点は、動揺するテサロニケの教会を励まし、正しい信仰をもって生涯歩むことができるようにすることにあります。パウロの願いはただ単にテサロニケの教会員たちがキリスト教の教理を身につけることにあるのではありません。そうではなく、与えられた道のりを最後まで確信を持って揺らぐことなく歩むことです
 さて、パウロはこの問題を4章の13節からずっと取り上げています。きょうの個所もその続きの個所です。
 パウロは今までのところで、終わりの日に起る出来事を、確信をもって述べて来ました。イエス・キリストが再び来てくださることも、また、既に眠りについた者たちが死者の中から甦ることも、そして、そのとき生き長らえている者たちが空中に引き上げられることも、どれもこれも確実に起る事柄としてパウロは述べて来ました。確実に起ることとして確信しているのですから、当然、そのことが起る時期についても、パウロは知っていると思われるかもしれません。
 5章では「その時と時期について」パウロは書き記そうとします。しかし、パウロは「あなたがたには書き記す必要はありません」と述べています。その時がいつなのか、その時期がいつなのか、テサロニケの人たちにはわかっていたからなのでしょうか。いえ、そのことが起る正確な時を知っていたからではなく、むしろ「その時と時期について正確には知りえない」ということをテサロニケの教会の人たちは知っていたのです。だからこそ、パウロは「あなたがたには書き記す必要はありません」と述べているのです。
 それは盗人が夜、不意にやって来るのと同じように、いつ来るか前も言って知らされるような事柄ではないのです。「安全だ、大丈夫だ」と思い込んでいるときに、突然やって来るものなのです。
 パウロは終わりの日についての比喩を、今度は盗人から臨月の妊婦に差し替えます。大きなお腹を見れば、もうすぐ赤ちゃんが生まれることは誰の目にもわかります。しかし、いつ生まれるのか、きょうなのか明日なのか、誰にもわかりません。突如として陣痛が始まり、出産が始まります。そして、そこから逃れることは誰にも出来ません。パウロは世の終わりはそのように突然襲い掛かり、誰にも逃れることが出来ないものだと述べます。
 では、クリスチャンにとって、世の終わりの出来事は恐怖感を抱きながら待つしかないものなのでしょうか。
 パウロは、主イエス・キリストを信じる者にとっては、その日がまったく予期できない出来事ではないと述べます。なぜなら、盗人が襲う夜の世界、闇の世界にわたしたちは属していないからだとパウロは述べます。光の子、昼の子であるクリスチャンにとっては、たとえ時と時期について知ることが出来ないとしても、突然その時が襲い掛かることはないというのです。
 そのために、闇の中で眠りこける者にならないで、むしろ目を覚まし、身を慎む者となるようにとパウロは勧めの言葉を結びます。
 終わりの日を迎えるわたしたちにとって大切なことは、その日とその時がいつなのかを詮索することではありません。まるで、暗闇の中に住む者のように、盗人が不意に襲い掛かるのを恐れることでもありません。そうではなく、いつがそのときであったとしても、十分な備えをもって、再び来てくださるキリストを迎えることです。そのことが大切なのです。

 「ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」

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